29 名前を呼ぶということ

 翌朝。あたしは鏡台の前で、久しぶりに自分で前髪をポンパドールに整えた。こうすると、なんだか気合いが入る気がしたのだ。


 ……さあ、やるぞ、涼音。ちょっとでも、前に進むんだ。


「失礼いたします」


「おはよう、つるばみ」


 入ってきたつるばみはあたしが夜に抜け出そうとしたことには気付いていなかったみたいで、いつも通りあたしの体調を確かめる。


「夜ふかしでもなさいました?」


「そこまでわかるんだ」


「いけませんよ、お肌が荒れてしまいます」


「はい」


 あたしはつるばみにされるがまま着替える。そして朝食を摂りに部屋を出て、いつもの部屋に入る。


 先に来ていたがふちなし眼鏡の向こうで驚いたように目を瞬かせた。


「昨日の今日だから、てっきり来ないと思ったよ」


「…………」


 返事に困って、あたしはとりあえず黙ったまま自分の席に座る。今まで全然話してこなかったから、今さらどうやって話せばいいのか、わからない。


 そうこうしているうちに膳が運ばれてきて、静かに朝食を食べ始める。


 こんなに歳の差があると、ちょっとした世間話も振りづらい。こんなややこしい関係性だから、なおさら。


 仕方ないから、とりあえず正面で一緒に食事をしている彼を観察することにした。


 さすがというかなんというか、食事の作法とか箸の持ち方とかがきちんとしている。作法についてはあたしも母さんにそこそこしつけられたっけ。


 ただ、ちょっと気になるのが……にんじん、よけてる?


 本人は涼しい顔してるけど、きんぴらが入っている小鉢の端にどんどんにんじんがたまっていく。見間違いじゃない。シュールだ。


 逆に、今まで気付かなかったっていうのが、あたしがどれだけこの人に興味をもってこなかったかを表しているようだった。


「……にんじん」


 あたしが呟くと、彼は箸を止める。あたしは勇気を出して、先を続けた。


「にんじん、嫌いなの?」


「ああ……子どもっぽいだろうが、少しね。最後には食べるよ」


「ふうん……」


 彼は食事に戻ってしまう。あたしは空になっている小鉢を少し悩んでから手に取って、彼に差し出した。


「どうした?」


「にんじん。嫌いな人に食べられるんじゃ、可哀想だから。あたし、にんじん好きだし」


「…………」


 彼はぽかんとしたように固まって、しばらく奇妙な膠着状態になる。


 でも、ここで引いたらなんだか負けた気がする。ずい、ともう一段階差し出したら、彼はふと表情を緩めた。


「そこまでされたら、お言葉に甘えようかな」


 彼がよけていたにんじんをあたしの小鉢に移し始める。


 自分でやっておいて、なんだかちょっと照れくさい。全部受け取って、あたしは小鉢をようやく引っ込めた。


 ちまちまにんじんを食べながら、あたしは迷う。今なら言い出せるだろうか。


「……ねえ」


「なんだい?」


 彼の声は少し柔らかい。これなら、言えそうだ。


「あたしがあんたをどう呼んでも、自由なんだよね」


「そうだね。好きに呼ぶといい」


 あたしは小さく息を吸った。


「じゃあ……これからは、縹悟って、呼び捨てで呼ぶから」


「……どんな心境の変化だい?」


「別に……ずっと一緒にいるのに、いつまでも『あんた』じゃ呼びにくいから」


「そうか」


 ちょっと意地を張ってしまったけど、これでも、これからは縹悟のことをきちんとひとりの人間として――一緒に生きていく存在として、認識しようという、あたしなりの決意がこもっていたりする。


 ……言わない、けど。


 縹悟はあたしの言い訳に納得したのかしていないのか、静かに食事に戻ってしまったので、あたしもまた箸を動かした。

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