26 白の深夜

 その週の間は、練はあの密約などなかったかのように振る舞った。宗主と昼食が一緒になっても顔色ひとつ変えず、むしろ従順に見えるほどに。


 でも最後の日曜日、練は午前中にあたしを屋敷の外に連れ出した。


「俺の足で1時間半はかかる道ですから、貴女は2時間以上を見積もっておいたほうがいいでしょう」


「どこへ行くの?」


 練は微笑んであたしに手を差し伸べる。屋敷の前でできない話ということは、この里の抜け道だろうか。


 門を出て、神社に向かう道を途中で曲がって、山の中にかろうじてある獣道に入る。


「俺が昔見つけて、それ以来気に入っている道なんです」


 歩きながら、目印を丁寧に説明しながら、練は話す。


「いちいち里の外を覗くのに黄道家の許可を得ないといけないなんて億劫だと思いましてね。色々探した結果が役に立ってよかった」


 たしかに3時間くらいかかって、山が突然途切れた。ガードレールがあって、広い車道が通っている。


「明日の深夜3時頃に、俺の乗った車がここを通ります。貴女はそれに間に合うように屋敷を抜け出して、ここで待っていてください」


「……わかった」


 屋敷の就寝時間は23時頃だ。寝静まるのを待ったり夜道を歩くことを考えるとギリギリだけど、間に合ってみせる。あたしはしっかりと頷いた。


「蛍光塗料を持ってきてありますから、目印のところに小さく塗っておきましょう」


「そうしてもらえると、助かるかも」


 印をつけながら屋敷に戻ると、すっかり夕方だった。練は何事もなかったかのように女中たちに挨拶をして帰っていく。


 明日の深夜。この里から、出られる。あたしは妙な笑みが浮かばないように気をつけながら、自分に与えられた部屋に戻った。




 そして翌日を気もそぞろに過ごして、23時過ぎ。あたしは寝巻きのままそうっと部屋から出た。


 寒いだろうけど、洋服は取り上げられてしまっているし和服は着方がわからないし、仕方ない。


 音を立てないように廊下を歩いて、玄関に向かう。草履を履くときにころん、と小さな音が鳴って心臓が跳ね上がった。


 玄関の戸をこれもそうっと開けて、屋敷を出る。


 けれど、月明かりの淡い、暗い夜、門の横にひとつの人影があった。


「……そんなはしたない格好で、散歩かい」


「宗主……」


 門にもたれていた宗主は体を起こして、あたしを見つめる。


「散歩に出たいなら、適当な女中を起こすといい。その格好では冷えるよ」


「…………」


 どうすればいい。あたしは混乱する頭で言い訳を考える。ああ、時間がどんどん過ぎる。


「ああ、そうだ」


 宗主は夜闇のような冷えた声音で、さも今思い出したかのように呟いた。


「練なら、昨日の夜急な要請が入って里を出たよ」


「……!」


 そんな。あたしは体が震え出すのを感じた。


「気付いてたの」


「練も君も、ありえないくらい普通だったからね。なにかを仕掛けてくるなら今夜だろうと思って、練を君から引き離した」


「…………」


「当たりのようだね。……ここは冷える。中に入って、少し話でもしよう」


「……はい」


 練がいないなら、あたしは逃げられない。そして逃げられないなら、あたしはこの人に逆らえないのだ。


 あたしは宗主にうながされ、絶望的な気持ちで、玄関へ引き返した。

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