第36話 水屋

 五日後。

 かたり、と格子扉が横に開き、見覚えのある顔の青年が、風呂敷包みを持って入ってきた。


 平然としたふうを装っているが、視線だけはせわしなく周囲に走らせている。

 その様子に確信を得て、あさひは、水屋棚の影からそっと立ち上がる。


あまねさん」


 声をかけると、ぎょっとしたように身を竦ませた後、旭の姿を確認して、ほう、と息を吐く。


「驚かせないでよ。なんでわざわざ隠れているのかな」

 睨みつけて言うから、旭は素直に詫びた。


「すみません。本当にいらっしゃるのか、その……。自信がなくて」

「それはこっちもだよ」


 周は格子戸がしっかりとしまっているのを再確認し、水屋の中ほどまで入って来る。


 ここは、本邸の茶室だった。

 庭の一角に設けられた、おもに父が接待で利用する場所だ。


 普段は、義母が時折異母兄を連れて稽古にやって来るだけで、人気はない。水屋となると、なおさらだ。


「屋敷の者には、なんと?」

 旭が小首を傾げる。周はぶっきらぼうに、手に持った風呂敷包みを突き出した。


「お借りしていた茶道具をお返しに、って。うちの顧客の先生で、ひとり、伽賀かがとつきあいがある人がいるんだよね。で、『一度、商品のご案内もしたいから、ぼくが返しに行きましょう』って、うまく話をつけて来たんだよ。あー、めんどくさ」


 周は言うなり、板敷きの水屋に膝をつくと、それでも丁寧に風呂敷を解いて、中から桐箱を取り出した。


「でも、まさか本当に、君がいるとはね。へぇ、伽賀の、ねぇ」


 口実とはいえ、茶道具の返却は本当だったらしい。

 きょろきょろと周囲を見回し、指示された置き場をみつけた周は、桐箱を持って立ち上がる。品の良い着物を着ているせいか、茶道の家元に見えそうな風格だ。


「わたしもです。実は半信半疑でした」


 苦笑いする旭に、周は肩を竦めてみせる。

 桐箱を元に戻すと、床から風呂敷を取り上げ、しゅる、と拾い上げた。


「美月のいうとおり、とはね。これは恐れ入った」

 肩口で切りそろえられた黒髪を揺らし、周が旭を見やる。


「ええ、本当に」

 それは、昨晩見た夢のことだ。



 伽賀の家に連れてこられて以降、なんだか眠りの質が変わった。


 猛烈な眠気に襲われ、昏倒するかのように眠るのに、目覚めが悪い。どろりとした眠気は身体というより、思考にまとわりつき、昼頃までうとうとしていたり、思うように動けなかったりする。


 三日が経つ頃に、旭は「夕飯になにか入れられているのではないか」と気づいた。


 この屋敷に連れてこられた初日、「本邸は自由に歩き回っていい」という言葉の通り、逃げ場を探して動き回った。というか、暴れまくった。

 結果的に、使用人や警備員が音を上げたのだろう。


 旭を大人しくさせるため、食事に薬を混ぜることにしたらしい。


『これは、全部食べなければいけませんか?』


 膳の向かいに座り、旭が完食するのを待っている高岡に尋ねる。

 正直、食べない、という手もあった。


 ここから出してもらえないなら、水も飲まない。

 自分を、睡蓮に返してくれ。

 そう言おうと思ったのだが。


『食べなくても構いませんが、その代わり、膳を運んできた女中は折檻せっかんを受けるでしょうね』

 高岡が無表情のまま言う。


 仰天したのは旭だけではない。襖付近で控えていた女中もだ。真っ青になって旭と高岡を交互に見比べている。


『その女中だけではない。膳をこしらえた者、品を選んだ者、すべて折檻の上、解雇ですが、どうなさいます』


 高岡は眼鏡を擦り上げ、つまらなそうに、襖に張り付くようにして怯えている女中を見やった。


『まずは、あの者から罰を受けますか』

『彼女は関係ないでしょう!』

 額に冷や汗を浮かべて怒鳴るが、高岡は態度を崩さない。


『気に入らないのでしょう? その膳が』

 高岡は、手のつけられていない膳を一瞥する。


『ならば、そんな膳を作ったものは、罰せられねばなりません。あるじを不快にさせたのですから』

『わたしは、彼女の主ではない!』


『主なのです。あなたは、伽賀の後継者なのですから』

 高岡は、眼鏡の向こうから鋭い視線を向けた。


『さあ、どうなさいます』


 静かに問われ、旭は唇を噛んだ。


『……いただきます』

 畳の上に座りなおし、呻くように呟くと、箸を手に取る。


 そうして完食すると。

 やはり、三十分もしないうちに抗えない眠気に取り込まれ、翌日の昼頃まで、なにもする気がおきない。


 そんな旭の夢の中に、一匹の狐が現れた。


『ええか、よう覚えておくんやで』


 黄金おうごん色の毛並みをした狐だ。

 身体全体が大きい。旭は、いまだかつて、こんなに大きな狐を見たことがなかった。山犬ほどもあるのではないだろうか。


『明日の午前十一時。この家の庭にある茶室に行け。水屋に、周が美月みつきからの伝言を持参……』


『美月さんは、無事ですか! 睡蓮は!?』

『どわああ! いきなり掴むなやっ』


 お座りをしている狐の両肩に飛びつくと、狐が尾を、ぼふり、と膨らませて驚く。


『普通は、「なんで狐がしゃべるん?」とか言うところやろ』

『いや、これ、夢でしょう? だったら、狐もしゃべるに違いありません』


『そやけど』

 旭の手から逃れ出た狐は、しぺしぺ、と自分の尾を舐めて毛づくろいを始める。


『どうせなら、美月さんが出てくればいいのに』


 項垂れ、ついそんなことを言ってしまう。

 ぼんやりとしていても、頭が動き出しても。

 考えるのは、美月のことだ。


 彼女は無事だろうか。伽賀のやつらが何かしていないだろうか。睡蓮は営業出来ているのだろうか。


 美月は悪意に弱いと言っていた。

 旭が抱きしめると、邪気が去るのだ、と。


 もう、四日も彼女を抱いていない。口づけもしていない。

 美月は無事だろうか。


『人間より、神狐しんこが現れる方が、霊験あらたかやないか』

『そうかもしれませんが……』


 美月さんに会いたい、と、ぽつりとこぼす旭に、狐は、『へっ』と、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


『それやったら、なおのこと、よう覚えとけよ。明日午前十一時。茶室の水屋におれ』


 狐がそう言った後。

 旭は目を覚ました。


 不思議と、いままでとは違い、だるさも眠気もなかった。

 だが、それを気取られて、また茶や食事になにか入れられてもかなわない。


 旭は、従来と同じように部屋でぐったりとして過ごし。

 そして、

 時間に間に合うように、水屋に忍び込んだのだ。




「いきなり美月がやってきてさ、日時と場所を言って、そこに行ってくれ、って言いだして……。君には、夢で知らせてる、とか……。最初は何言ってんのかわかんなかったよ」

 腕を組んで鼻を鳴らす周に、旭はきょとんと目をまたたかせた。


「え。周さんも、狐の夢を見たんじゃないんですか」


「見るもんか。美月が来たんだ。伽賀の屋敷に入って、水屋に行けば君がいるから、伝えてほしい、って」

 うんざりした顔で周は続ける。


「どうやって伽賀なんて大財閥の家に入るんだよ、って言っても、『何とかして』しか言わないし。もう、お手上げだったよ」


「み、美月さんは!!」

「うわあっ!」


 がっしりと周の肩を掴み、顔を寄せる。


「美月さんはお元気でしたか!?」

「病気」


 鼻を突き合わせた状態で、言い切る周に、旭は腰から力が抜けた。


 やはり、悪意に影響されているのだろうか。寝込んでいるのだろうか。

 へなへなと板場に座り込む旭を、周は三白眼で見下ろす。


「どう考えたって、あれは病気。君のせいだよ」

「…………どうしよう………」


 勝手に唇が震える。

 脳裏に浮かぶのは、寒い、と言って寝込む美月の姿だ。


 あの時、信田しのだは平然としていたが、旭は恐ろしくて仕方がなかった。


 母のように、はかなくなってしまったらどうしよう。


 人の生き死になど、本当に神次第運次第だ。

 生きたいと願う人は死に、死にたいと泣き叫んでも、この世の地獄を彷徨う。


 美月までこの世から去ってしまえば。

 自分はなにを楽しみ、なにを嬉しいと思えばいいのか。


 人生に、喜びも嬉しさもないのなら。

 生きる価値とは、なんなのか。


「美月ってさ、あんなになにかに執着する子じゃなかったんだよね」

 ぼやり、と周の声が頭の上を過ぎていく。


「どちらかっていうと、いっつも淡々としていて……、だけどなんか夢見がちな感じでさ。祖父も、案じてたわけよ、将来を。ぼくとおんなじで、和菓子屋にも興味がないみたいだしさ。だったら、ぼくが寄り添ってやろうと思っていたのに」


 長々と語る周を、旭は座り込んだまま、ゆるゆると見上げる。

 がつり、と強烈な視線を投げつけられて、目をまたたかせた。


「性格豹変しちゃってるよ。なにあれ、君のせいだからね。病気だよ」

「……え?」


「君に惚れて、病気になってる。別人だよ、あれじゃあ」


 吐き捨てられ、旭は、ぽかんと口を開いた。

 同時に、はは、と気の抜けた笑い声が漏れる。


 病気とは、恋の病、ということか。


「よかった……」

 知らずに、涙が一粒だけ流れ、旭は慌てて握った拳で拭うと、周に舌打ちされた。


「それ以外は、美月、元気だよ。元気すぎて、迷惑だよ」

「店は? 睡蓮はどうなってますか」


 菓子を作っていたのは旭だ。

 商品がなければ、店が開けられない。

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