第25話 彩女
◇◇◇◇
一時間前の忙しさが嘘のように静まった庭園で、
真上にあった太陽は、だいぶん傾いでいる。だが、まだその色を橙色にするには早かった。
「お疲れさまでした」
まだ、他のパラソルはそこそこ商品が残っているが、
「旭さんも。朝からお疲れさまでした」
ぺこりと頭を下げるが、旭はおだやかな笑みを浮かべて首を横に振るだけだ。
「ところで、この衣装。どこから借りたんですか?」
美月は、スカート部分を摘まんで、少し持ち上げる。
「執事さんです。こちらの使用人はすべて洋装をしていたので……。余っているかどうか尋ねてみたんですよ」
執事は、気前よく貸してくれたらしい。
あとで、きれいに洗って返し、ちゃんとお礼を言わないと、と思っていると。
「あ。なんだ、完売? すごいね」
抑揚のない声がパラソル内に滑り込む。
反射的に顔を向けると、
「なに、その格好」
「周さんこそ。なんか、扇子から水を出しそう」
「誰が
「そっちこそ、何しに来たのよ。ここは敵陣よ、敵陣」
がうがう、と噛みつくと、「敵陣って」と、馬鹿にしたように笑われた。
「どうも、お疲れ様です。野点の方はどうですか? ご挨拶に伺えず、申し訳ありません」
片付けの手を止め、旭が椅子に座る美月の側に寄る。
「こっちはこっちで、さらっと嫌味かな。忙しすぎて顔を出す暇もありませんでした、ってこと?」
周が三白眼を細めるから、美月が睨み返す。
「ひねくれもの」
「美月みたいに狂暴よりましでしょ」
「誰が狂暴よっ」
「そんなところだよ。まあ」
周は不毛な会話を強引に終わらせ、旭を見る。
「野点に、そんな西洋かぶれの恰好でうろうろされちゃ、迷惑なんだけどさ」
「旭さんは目をひくからね」
「ぼくほどじゃないけどね」
しれっ、とそんなことを言う。「はあ?」と問い返してやったが、なるほど、今日のような姿をしていれば、いいとこの若旦那に見える。肩口でそろえた禿だって、愁いを帯びたような印象があって、儚げだった。
「何件か、お貴族さんから声がかかったんじゃない?」
周の問いかけに、旭はあいまいに頷く。
「うちのガーデンパーティにも来てほしい、とか。嬉しいことに、そういったお声がけはいただきました」
「なら、茶道の先生方、このまま、こっちで引き受けちゃってもいいよね」
美月が目をまたたかせると、周は一瞥を投げた。
「あんたたち、けんかふっかけたんでしょ」
「いや、先にふっかけてきたのは、あっちだし!」
「だとしても、客をやり込めてどうすんの」
「やり返さなきゃ、うちの立場がもっと悪くなってた!」
美月は憤然と立ち上がった。
「客だからって、人のプライドを踏みにじる権利はないわ。お金を払ったら、なに言ってもいいと思ってるんなら、大間違いなんだからねっ」
「もう、修復不能でしょう、これ」
周が大げさに肩を竦め、旭を見た。
「茶道の先生方も、怒髪天をついちゃってさ。二度とそっちには行かないって」
「そう……、ですか」
「ま。ぼく、ほら。そっち界隈の人間に気に入られてて。いろいろ優遇されてるんだよね。だから、そっちにいた茶道の先生、全部
はっきり言われても、言い返せない。ただ、美月としては取り返すつもりもない。
「そしたらさ、芍薬庵の経営が結構成り立つんだよ」
周は腕を組み、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「一時は、睡蓮を売って、そのカネをいれないことには、職人の手当ても払えないほどだったんだけど。おかげさまで、盛り返しまして」
目を細めた周は、美月と旭を交互に見る。
「そっちも、軌道に乗ってるんでしょう? 経営。だったら、睡蓮を売却して、美月をぼくの嫁に、って話はご破算、ということで」
「よろしいんですか?」
呆気にとられている美月の隣で、旭が勢い込む。
「よろしくないよ」
はっきりと周は言い、険のある瞳で旭を睨みつける。
「君が、美月をいらない、ってんなら、ぼくがもらいたいよ」
「渡すつもりは、
即座に言い放つ旭を、周は鼻で笑い飛ばした。
「だったら、よろしいんですか、なんて殊勝なことは言わないことだね。それに」
三白眼の瞳を細め、いつもよりも低い声で凄んで見せる。
「美月が幸せそうだから、このままにしておいてやるんだ。もしも、少しでも不幸にしてみやがれ。全力で叩き潰してやる」
「肝に、銘じます」
しっかりと目を見て頷く旭をしばらく睨みつけていたものの、ふい、と視線を外し、いつもの抑揚のない声と、無表情で美月を見る。
「ぼく、茶道の家元からいくつか縁談があってさ。親父殿がどうもそっちに乗り変えそうだから、婿に行くつもりだけど。なにかあったら声をかけてよ」
にやり、と意地悪く笑った。
「召使ぐらいにはしてやるから」
「結構です」
きっぱりと言い切ると、周は軽やかに笑って、パラソルを出て行った。
☨☨☨☨
その二時間後。
美月は風呂敷を左手に持ち、旭を振り返った。
「その行李、重くないですか? 大丈夫ですか」
芝生の上に風呂敷を広げ、旭は行李をくるんでいるところだった。
もう、庭中のパラソルは閉じられていて、橙色の夕日の中、鷺がつん、と顎を上げて立っているように見える。
「大丈夫ですよ」
旭は笑うと、風呂敷で包んだ行李を背負い、
(おお、ワンショルダー)
風呂敷って便利だな、と思っていたら、すい、と旭が隣に並んだ。
「こうすれば、美月さんと手をつないで歩けるでしょう?」
言うなり、左手を握られる。
なんとなく、周囲に視線を走らせるが、職人や使用人たちは片づけを終え、すべて館内に移動しているようだ。
「庭にいる間だけ、ですよ」
なんとなく、頬が熱い。上目遣いに旭にそう言うと、彼は笑みを深めて、「はい」と返事をした。
「今日は楽しかったですね」
さくさくと芝を踏みながら、夕日に染まる庭を歩く。美月は旭を見上げ、ほほ笑んだ。
「楽しかったです。企画して、宣伝して、売り出して……」
「今度は、夏に向けてなにか考えましょう」
旭に言われ、美月は深く頷いた。
「そうですね。今度は、前に言っていたように、カフェスペースを……」
作りませんか、の美月の語尾は、澄んだ女性の声に消された。
「旭様!」
咄嗟に旭が立ち止まる。一瞬だけ、ぎゅ、と美月の左手が強く握られた。
がさり、と。
低木の葉を分けるようにして飛び出してきたのは、緋色の振袖を着た女性だ。
「ようやく見つけましたわ!」
言うなり、旭に抱き着く。
どん、と。
その衝撃にこらえきれず、旭が数歩、たたらを踏む。その拍子に、美月の左手が彼から離れた。
「ど……、うして……」
旭が茫然と、自分に抱き着き、腰に腕を回している女性を見下している。
「旭様らしい殿方が、設楽伯爵の演奏会にいる、とお聞きしていても立ってもいられず……。ああ、お会いしたかった」
言うなり、女性は頬を旭の胸に押し付け、はらはらと涙を流す。まるで、玻璃のような涙を、美月は何も考えられずに見つめた。
「無言でいなくなるなんて……。どれだけ心配したとおもいますの。おじさまも、わたくしも、必死で旭様を探しておりましたのよ。ジョン先生だって」
女性は、ぐい、と顔を上げ、間近に旭を見る。
ようやく。
旭の身体から硬直の呪いが解けた。
「わたしは
固い声を口から漏らすと、強引に彩女と呼んだ女性の腕を振りほどく。
「勘当については、おじさまが解く、と」
必死にしがみつく彩女の口から迸るその言葉が。
旭を再び、拘束した。
「え……?」
「感情的になって悪かった、とおじさま、悩んでおられましたわ」
彩女は慰めるような笑みを旭に向けた。ぎゅ、と黒いベストを握りしめ、言う。
「ですから、どうぞお屋敷にお戻りになって。また、わたくしと恋人同士に戻りましょう。そして、昔のように暮らせばいいのです」
聞いているのか、聞いていないのか。
無表情のまま微動だにしなかった旭だが。
美月の視線に今更気づいたのか、電気が走ったかのように、身体を震わせた。
「……帰りましょう、美月さん」
彼らしくない強引な手つきで彩女を突き飛ばす。彩女は悲鳴を上げて芝生の上に尻餅をついた。咄嗟に助けようと美月が手を伸ばすのだが。
ちりり、と。右腕に痛みが走る。
いや。
熱に似ているが、これは冷たさだ。
自分が手を伸ばした先を見る。
そこには。
彩女が柳眉を寄せて睨みつけていた。
じり、と焦げたような痛みに顔をしかめ、美月は手を引き戻す。
「帰りましょう」
そこには。
夕陽に染まり、火炎にあぶられたような色の空気の中、般若のような顔をで自分を睨みつける彩女の顔があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます