第26話 混乱
その日の晩。
向かいの席には、美月と同じ膳が用意してある。
間近においた
もう何度目か。
美月は顔を上げ、廊下に続く障子を見る。
だが、そこが開き、
それどころか、旭の自室から物音がすることもない。
生きているのか、と心配になって一時間前、声をかけたら、「すいません、今日はもう疲れました」と暗い声で返事があった。
そうですか、と引き下がったものの、「いつもの時間に夕飯を準備していますから」とだけ言う。
箱膳に載せられた弁当は、
『容器と……、それから洋服は、いつ返却してもらっても構わないです』
執事は美月にそう言い、御膳をふたつ、持たせてくれた。
『旦那様は非常に満足なさっていました。もちろん、おふたりを推挙されたあの御方も』
今から考えれば、『それは誰なのですか』と尋ねておけばよかったと悔やまれる。
このきっかけがなければ、
だが。
「それどころじゃなかったし……」
ぼそり、と呟く。
洋館の前で人力車に荷物を積み、座った途端、まったく動かなくなった。
声をかけても、あれは誰ですか、と尋ねてみても、返事すらしない。
ただただ、膝がしらの上にそろえて握った拳を見つめているだけだ。
仕方なく美月が、執事やその他使用人への挨拶を終え、人力車に依頼して睡蓮まで運んでもらってきた。
荷物すら何もかもうちやり、旭は店につくや自室に閉じこもった。片付けは美月がすべて行ったというのに、ねぎらいの言葉さえない。
風呂に入りませんか、と声をかけても返事はなく、室内が暗くなっても行燈に火が入る様子もない。
「食べよう」
待っていても仕方ない。すでに一時間が過ぎた。
美月は箱膳をざっと見る。
白身魚を焼いたもの、里芋と人参の煮物、酢の物にはタコが入っている。白米は型抜きされて、ふりかけが上から彩に振られていた。
いつもなら。
旭と一緒に食べるのに。
今日は、ひとりだ。
箸を取ろうとして右手を動かすと、ぴりりりと、静電気が走るような痛みがある。箸を取り落とし、唇を噛んだ。
(なんで、なにも言わないわけ)
ふつふつと心の底から湧き上がるのは、怒りだった。
当初は心配し、困惑し、戸惑っていたのだが。
だんだん、腹が立ってきた。
なぜ、あの男はなにも美月に説明をしないのだ。
(あの女は誰なの)
左手で、自分の右手を握る。
冷たい。
前回と同じだ。悪意を貰ったに違いない。
あの時の気だるさや寒さ、体調不良を思い出してうんざりした。また、あの調子になるのか。
自分をこんな目に遭わせる、あの女はなんなんだ。
(だいたい、旭さん。私になんの説明もしていないし……)
よく考えれば、いまだ、素性らしきものを彼から聞いたことはない。
『言いたくないのだろう』と察し、今まで触れずにいたが、それをいいことに、あの男は謎だらけではないか。
(恋人、って言ってなかった……?)
それなのに、よく自分と契約でも結婚しようとおもったものだ。
かっとなって、握り箸で、里芋を突きさす。貫通したせいか、がつん、と弁当箱の底を箸が突いた。ぴりぴりして、とてもじゃないが、三本指で箸を操作できない。だいたい、ひとりなのだ。誰に見とがめられることはない。
(……いや、私が契約でもいい、って言ったんだっけ?)
そういえば、「女で失敗したから、嘘でも結婚なんて」って尻込みしていたか。
思い出してなお、それを怒りの炎が焼いた。
(そんなことはどうでもいい!! よくも、そんな女がいたのに、私に……っ)
がぶり、と里芋にかみついた。
よくも私に、甘い言葉を囁いたものだ。
しかも、男としてみてくれ、とほざいていなかったか。
(あの男……っ!)
ろくでもない男じゃないか。
がしがしと里芋を咀嚼していたら、住居用の玄関扉が開く音がする。しまった、施錠していなかったと思ったら、狐らしい。
「なんや。戻ってんの? 鍵せんと不用心やん」
言いながら、とすとす、と廊下を歩いて来る気配がある。
しゅるり、と障子が開き、書生姿の狐が、ひょっこり顔をのぞかせた。
「あ。ええもん食べてる!」
言うなり、ちょこんと旭の席に座ったが、嬉しそうな顔をしたのは一瞬だ。
「どないしてん。また、悪いもん、もろてるやん」
不意に顔を起こし、向かいの美月を見る。
「ほれ、右手見せてん」
よっこらしょ、と立ち上がり、美月に近寄る。
美月は無言のまま、そして箸を握りしめたまま、狐に拳を突き出した。
「あぶなっ。殴られるんかとおもった。もう」
狐は美月の右こぶしを両手で包み、ついでに、ふう、と呼気を吹きかけた。
同時に、どろり、とした黒い液体が握った掌から畳に滴り落ちる。驚いて箸を取り落とし、膝立ちになって狐の腕にすがりついた。
「今日ついたところやってんな。簡単に落ちたわ」
さて、ごはん食べよう、とばかりに箱膳を一瞥したが、また顔を美月に戻した。
「旭はどないしてん。あれ、旭のか?」
尋ねられ、美月は、ごくん、と口の中の里芋を嚥下する。
知らない。
答えようとしたのに、喉から漏れ出したのは嗚咽だ。
ぎょっとしたように狐が目を剥く。
構わず、美月は膝立ちのまま、狐に抱き着いて泣きだした。
「ちょ、ちょ、おまえ……。この態勢きついわっ」
狐は中腰になったまま、なんとか転倒を防ごうと美月を支えている。
傍から見たら、きっと相撲をとっているふたりに見えたことだろう。
「えー、もう。なんやねん」
狐は、その細い腕に似合わない強力で美月を立たせると、前抱きにして、ぽんぽんと背を撫でた。気分は幼児だ。
美月は狐の襟を両手で握り、白シャツに額を押し付けて、おいおいと泣いた。
なんで泣いているのか、なんだかもうわからない。
自分は怒っていたはずなのに、どうしてこんなに悲しくなるのだ。
何も言ってくれない、旭に対して。
「泣いとったらわからんやん。言うてみ?」
困惑と狼狽が半分ずつ混じった狐の声に、遠慮がちに近づいて来る足音が混じる。
「あ、あの……」
怯えたような声は、旭だろう。
だが、美月は無視して狐にしがみつき、泣く。
「どないしてん、これ。美月、なんかあったんか? って、お前、なんやねん、その格好。異国人か」
狐が旭に声をかけている。
旭がどんな顔をしているのか、どんな格好をしているのか、美月にはわからない。狐が驚いているということは、ギャルソン姿のままなのだろう。美月はもう着替えたというのに。
そして、何度も着替えるように、廊下から促したというのに。
それなのに、旭にそれが届いていない。
無性に悲しくて、情けなくて、辛いことに感じて、涙が止まらない。
「お前、美月になんかしたんか」
狐が低い声で唸る。
「その」
旭が言葉を詰まらせた。
言えばいいのに、と美月は腹が立つ。
婚約者がいることを知られたのだ、と。
勘当を解いてやる、と親に言われたのだ、と。
「いくら
狐が凄む。
「その、今日……」
旭が何か言おうとしたのを察し、美月は狐から離れた。
「美月」
剣呑な顔で旭を睨む狐が、琥珀色の瞳だけ動かして美月を見た。
「美月さん」
憔悴しきった旭の顔。
「……っ」
なにもかも見たくない。
聞きたくない。
美月は、旭を突き飛ばし、廊下に飛び出る。
「美月! どこ行くねん!」
「美月さん!」
ふたりの声を振り切り、美月は玄関から夜の帳の中に走り出した。
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