第7話 始まった、朝
「それで、あの……。朝ご飯のことなんですが」
思い切って方向性を変えると、旭は、ほっとしたように頬を緩めた。
「はい」
「いつも、
はい、と旭が頷く。
さっきとは違い、随分と嬉しそうだ。
「浅漬けがまだあるから……。大丈夫かな。お米もしかけたし」
指を折って段取りを考えていたら、ふふ、と照れたような笑い声が聞こえてきて、ふと、目をまたたかせる。
「あ。いえ……。誰かと朝ご飯を食べるのは久しぶりなので。なんだか楽しみになってしまって」
帳面を懐に仕舞い、旭は眩し気に目を細めた。
「不束者ではありますが、しばらく、どうぞよろしくお願いいたします」
「……なんかそれ、私が言わないといけないやつですよね」
「そうですか?」
不思議そうな顔をしているが、助けてもらっているのは、こちらなのだ。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ぺこりと頭を下げてから、向かいの障子を指さし見て見せる。
「私、向かいの部屋ですから。何かあったら声をかけてくださいね」
「わかりました。美月さん、おやすみなさい」
「旭さんも。おやすみなさい」
柔らかく笑む旭に手を振ると、彼は会釈をして静かに障子を閉める。
ぼんやりと光を内包する障子紙には旭の淡い影が映る。
するするとそれは遠ざかり、また、文机の前で止まった。まだ、しばらく祖父の帳面を眺めるのだろう。
(さて。私も……)
くるり、と旭の部屋に背を向ける。
ポイントカードと判子を用意しなければ、と障子の引手に指をかける。
よく考えれば、この時代にコピー機はない。ポイントカードを作ると言ったものの、それはすなわち手書きであり、判子は自家製なのだ。
(ま。作業は嫌いじゃないし)
保育科だったこともあり、手作りやポップ作りは好きだ。
作業工程を考え、少し心が浮き立った。
明日からのことを想像し、美月は華やいだ気持ちのまま、自室に入った。
◇◇◇◇
次の日の朝。
のれんをくぐって厨房に入ると、柔らかな湯気が美月の頬を撫でる。
焚きつけの木が燃える匂い。
ついで、鼓膜を撫でるのは小豆が炊ける音。
そして、ほのかな米の蒸される匂い。
(……おじいちゃん……)
咄嗟に足が止まる。
だが。
そこにいるのは、旭だ。
「おはようございます」
ワイシャツに学生服のズボン。その上から白い前掛けをした旭は、頭に巻いていた手拭いを取って会釈をする。
全然祖父と似ていないのに、なぜだか気配がそっくりだ。
緩く笑う顔や、穏やかな視線。淡く、静かなたたずまい。
「おはようございます。早いんですね」
なんだか目に涙がにじみそうになって、すん、と鼻を鳴らす。
まだ朝の五時だ。確かに祖父はこれぐらいの時間に起き出し、小豆を炊いていた。
「美月さんこそ。あ。そっちのおくどさんに米が仕掛けてあったので炊いていますが……。大丈夫でしたか?」
言われてさらに驚いた。
「ありがとうございます。……え? お米とか炊けるんですか」
「あれだけ準備なされていたらさすがに。あとは、火をかけるだけじゃないですか」
あっけらかんと笑うが、知らずに美月の眉根が寄る。
男子厨房に入らず、ではないのか。
職業柄祖父は厨房兼作業場を出入りしているが、他の家もそうか、というと違う。ましてや、旭は見るからに良家の子息だ。
(なんでご飯が炊けるのかな……)
訝しく思いながらも、美月は前掛けを締め直して土間に降り、下駄を履いた。
ちらりと視線を走らせる。彼も素足に下駄ばきだ。
なんか、自分とは違う、ごつごつした大きな足に、ちょっとだけ、どきりとした。
そんな旭は、また手拭いを頭に巻きなおすと、すり鉢でごりごりとなにかをすりつぶしている。通り過ぎさまに、中を見ると、よもぎだ。
「今日の朝生菓子は、よもぎ大福ですか?」
声をかけ、竈の火を確認する。
「ええ。さくら餅のほうは、もう準備が整いましたので……。すいません。勝手にいろいろ使いましたが」
「どうぞ、どうぞ」
手早く米や蒸し器の状態に視線を走らせていると、棒手振りの「しじみぃ」という声が聞こえて来た。
「おはようございます!」
屋内から声をかけると、「へい」と返事があり、勝手口が、がらりと外から開けられた。
「おや。美月ちゃん。そちらは?」
天秤を下しながら、顔見知りのしじみ売りが旭を顎でしゃくる。
「えっと……。私の、旦那さん……?」
咄嗟にうまく言葉が出てこない。
「旦那さん?」
訝し気なしじみ売りの顔に、焦った。
そうだ。葬儀が終わったとはいえ、まだ喪中なのだ。こんな時、なんと言えば良かったのだっけ、と口を開閉していたら、旭が隣に立ってくれた。
「美月さんとは
昨晩口にした通りの説明を旭が行い、美月は慌てて追随する。
「そ、そそそそそそうなの、ほんと、ねえ。どうぞよろしく」
「なんでぇ、そうだったのかい。男前のお婿さんでよかったねぇ、美月ちゃん」
しじみ売りは破顔すると、美月が手に持っていたままの笊を受け取り、しじみをざっくりと盛ってやる。
「じいさんのことは気の毒だったなぁ。気落ちしてんじゃねぇか、ってみんな心配してたんだが……。許嫁が来てくれてるんだったら、よかった。しかも、菓子職人かい」
「
驚いて顔を見ると、まじめな顔でひとつ頷いてくれる。
「しっかりやんな」
「ありがとうございます」
頭を下げると、しじみ売りはいつも通りの笑顔を浮かべ、旭に会釈をして出て行った。
「どうかしましたか?」
旭がすりこぎを持ったまま首を傾げる。数瞬迷ったが、遠慮ばかりする彼のことだ。芍薬庵がこの和菓子屋を狙っていることを、『みんな知っている』状態だと伝えれば、変に力んでしまうに違いない。
「おまけ、してくれました」
美月はにっこり笑って、笊を掲げて見せる。旭は白い歯を見せて笑い、「それはよかった」と応じてくれた。
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