第6話 祖父のいない家

 その日の晩。

 風呂のある小屋を出た美月みつきは、寝間着ねまぎのまま真向かいの勝手口に、下駄を鳴らして進んだ。


 店舗とは真裏にあたる場所に、風呂と便所が並んで設えてある。特に灯りなどなくても、屋内へはすぐだ。


あさひさん、お湯、ぬるくなかったかな)


 先に入ってもらったとき、温度を尋ねたのだが、「大丈夫です」と答えていたので、焚き付けを追加しなかったが、遠慮していたのかもしれない。さっき、美月が入ったら、どうにもぬるい。


(まあ。そんなに寒い時期じゃないし)


 もう、四月だ。湯冷めはしないだろう。

 ただ、彼は遠慮がちだ、ということは頭のどこかに置いておこうと思いながら、最近、開閉するたびに音がする勝手口を開け、下駄を脱いで式台しきだいに乗った。


 そのまま、素足で廊下を歩く。

 旭の部屋としてあてがった祖父の自室からは、障子を通して明かりが漏れている。


 その向こうにいるのは祖父ではない。

 そうわかっているのに、つい、足を止めてしまう。


 文机のあるあたりに、ぼやりと映る影は、実は祖父ではないのか。

 美月の気配に気づき、立ち上がるのではないか。

 そんな馬鹿な想像をしてしまう。


「旭さん……?」

 障子越しに声をかけた。


『ん? 美月かい。旭って誰かね』


 そんな、塩辛声が返って来る気がして。

 だが。


「はい」


 聞こえてきたのは、耳に心地よいテノール。

 想像以上にがっかりとした美月の鼓膜は、畳の上を歩く、しゅいしゅいという音を拾った。その後、すい、と障子が開く。


 昼間見た学生服姿とは違い、美月と同じ寝間着姿だった。


 どうしても、祖父の姿を期待していただけに、その真逆の若い男性の登場に、違和感を超えて、戸惑ってしまう。


 おまけに、襟元からのぞく鎖骨や、す、と伸びた首にのどぼとけがみえて、ドギマギした。


「ああ、ごめんなさい。まだ、起きてらっしゃるのかと思って……」


 別に出てきてもらおうと思ったわけではないのだ、と首を横に振るが、旭は旭で、寝間着姿の美月に仰天したらしい。

 慌てて少し距離をおくために、障子から離れる。


「こちらこそ。急にその、障子を開けてしまって……」


 適切と思われる距離を保つ旭に、ほっとしつつも、昼間聞いた話が頭をよぎる。


『強いて言うなら、女、ですかね』


 彼の勘当理由。

 やはりそれが、どうにも腑に落ちない。

 まじまじと見つめていたら、不審に思われたらしい。


「いや、その……。お公家さんじゃあるまいし。御簾越しならぬ、障子越しの会話も変でしょう?」


 そんなことを口にしてごまかそうとしたが、ふと、旭がその公家のようにも見えて、なんとなく表情を硬くする。


(……そういえば、旭さんのご実家のこと、特に何も聞いてないのよね……)


 狐が警戒していない、というだけで信用してしまっているが、素性どころか年齢も知らない。


睡蓮すいれんさんのレシピを拝見していました。そろそろ、桜餅を出す時期のようです。それに合わせて、椿の上生菓子などどうでしょう」


 旭が手にしているのは、古びた帳面だ。癖のある毛筆で祖父の字が書き連ねてある。


「良いと思います。椿の上生菓子と言えば……、『春の娘』ですね」


 上生菓子には、それぞれ名前がついている。

 祖父が作る椿の菓子は、深紅の花弁はなびら五枚をくるりと巻き付けて、中心に花芯かしんである黄色を添えたものだ。花弁の色よりも黄色が映え、どこか大人っぽさを感じる菓子だ。


「うまくできればいいですが……。がんばります」

 旭の声が固い。美月は頬を緩めた。


「旭さんの腕なら大丈夫ですよ。あんなにおいしいお菓子が作れるんですから」

 そういうと、はにかんだように微笑む。


「恐縮です」

「あの」


「はい?」

「旭さん、っておいくつなんですか?」


「ああ。十七です」

 そういえば、高等学校を退学した、と言っていたか、と思い出す。


「美月さんは?」

「今年十六になりました」


「じゃあ、そんなに年が変わりませんね」

 ほっとしたように旭が笑う。


「ずっと、睡蓮でお育ちなんですか?」

「そうです。祖父の長男にあたるのが父なんですが……。私が幼いときに亡くなり、そのあと、母も。以降、ずっと祖父に育てられました」


「学校、とかは?」

 尋ねられ、美月は目をしばたかせて首を横に振る。


「いいえ、特に。ですが、読み書きそろばんは、近所で学びましたので、問題ありませんよ」

 計算ができない、と思われたのだろうかと口にしたが、そうではないらしい。


「あ……、そう、なんです、か」

 訝し気な顔を見せたものの、旭はそれ以上深追いしようとはしなかった。


「あの、旭さんはこのお近くにお住まいだったんですか?」


 祖父が配達する場所と言えば限られている。いったい、どこで教えていたのだろう、とそれが不思議だった。


「そうです、ね……。近くと言えば近くかな」

 曖昧に濁すから、今度は美月が踏みとどまる。


「お部屋、好きに使ってもらって構いませんから」


 旭越しに部屋を見る。

 祖父が使っていた部屋。


 まだ、旭が入ってから数時間しか経っていないから、祖父の気配が色濃く残っていた。


「祖父の荷物とかまだ全然残っているんで……。おいおい処分しますね。邪魔なものは隅にでも固めておいてください」


「あの」

「はい」


 旭に声をかけられ、顎を上げる。

 長身だと気づいてはいたが、本当に大きい。美月と祖父は同じぐらいの視線だったのに。


「まだ、葬儀も終わったところのようですし……。処分したり片付けたりするのは、辛いのでは?」


 わずかに腰をかがめ、旭が顔を覗き込んでくる。

 風呂に入ったせいだろう。昼間のように伽羅きゃらの香りではなく、石鹸の匂いがした。


「もし、よろしければ、このまま使わせていただけると、わたしは助かるんですが」

「いえ、ですが……。ご不便でしょう。不要……」

 不要なものも多くあるでしょうし、と言いかけ、口をつぐむ。


 実際。

 美月にとって不要なものなど、この家にはなかった。

 祖父の使っていたものを、不要と言い切れるほど、割り切れてはいなかった。


「この店と同じく、ここに不要なものなどないのではないですか?」

 優しく尋ねられ、唇を噛み締めた。


 伯父夫婦があっさりと売却を決め、あまねからは『興味ない』と言われた和菓子屋睡蓮。


 だけど。

 美月にとっては、祖父との思い出や生活が詰まった大切な場所だった。


「ありがとうございます」


 感謝の言葉は、この店を守ってくれたことと、美月と同じく『大事な場だ』と言ってくれた心遣いにだった。


 目の縁に盛り上がる涙がぼろりとこぼれ、慌てて丸めた拳で拭うものの、涙は次から次へとあふれ出してきた。


「すいません」

 顔を逸らしたのに、今度は嗚咽が漏れた。


 手で顔を覆い、必死にこらえようと思うのに、喉からせり上がるのは悲しみであり、目からあふれ出すのは、祖父のいない寂しさだった。


「あの……、これ」


 しばらく、ひっくえっぐ、としゃくりあげていたら、静かな低音が美月を包んだ。

 顔を覆う手を下し、そっと見上げる。

 旭が手拭いを差し出してくれていた。


「いえ……。あの、大丈夫です」

 寝間着の袖でぐしぐしと顔を拭き、はなをすすって、強張った笑みを浮かべる。


「すいません。見苦しいところを……」

「わたしも、母の持ち物を片付けられませんでしたから」


 旭はやはりわずかに腰をかがめ、まだ涙が盛り上がる美月の目元に自分の手拭いを押し当てた。


「結果的に、父がすべて処分してしまいましたが……。今でも、後悔しています。なので、美月さんもどうぞ、落ち着いてからゆっくり考えられる方がいいです」


 手拭いで涙を拭ってくれる旭の指から、優しさが伝わってくるようだ。頬が熱を帯び、肩や首に滞る無理な力がほぐれていく気がした。


「優しいんですね、旭さん」

 ありがとうございます、と言って手拭いを受け取ると、旭は一瞬目を丸くする。


「……優しいのではなく、卑怯なんですよ」

 自嘲気味に笑う旭に、美月は目を見開く。


「そんなことは……」

「だから、あなたはあまりわたしを信用しすぎない方がいいです。結婚のことも……、その」


 旭は今更にまた、距離が気になったのだろう。ゆっくりと数歩後ずさる。


「周囲には……、そうだな。わたしとあなたは、許嫁いいなずけということにしておきましょう。祖父が亡くなり、力を落としていたので、田舎からわたしが出てきた、ということで……。正式な結婚は喪が明けてから行う、と。そうすれば」


 旭は言葉を濁す。

 三か月は経つ、ということだろう。


 もし、店が傾き、旭が去ってこの店が売り払われたとしても、正式な婚姻の手続きをとっているわけではないので、美月は初婚のまま、あまねと婚姻が結べる。


「……わかり、ました」

 美月は手拭いを握りしめ、返事をする。旭は顔を背けたまま、ぎこちなく頷いた。


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