第12話 柏餅
一か月後の五月のある日。
もわり、と噴き上がる湯気が顔と言わず首と言わず、全身にまとわりつき、一瞬目の前が白くなる。
「ふーっ」
効果があるのかないのか。
美月は息を吹いて湯気を追いやり、厨房からのれんをくぐって、店舗へと走り込んだ。
商品棚の脇を通り、土間を下駄で走ると、通りから華やいだいくつもの声が聞こえてくる。
「あっ。美月さんっ」
三段の蒸籠を抱え、ぐい、と正面ののれんを押し通ると、
「はい?」
視界を蒸籠が塞いでいるため、彼がどこにいるのかいまいちわからない。返事だけすると、ぐい、と蒸籠が持ち上げられる。
「重かったでしょう。大丈夫ですか?」
蒸籠が消えた視界から、旭が現れた。
今日は作務衣姿だ。頭には相変わらず手拭いを巻いているが、汗で湿ってしまっている。
美月に代わり軽々と持つと、店頭に置いた簡易かまどの上に設置する。
しゅう、とまた盛大に湯気を上げ始める蒸籠の中にあるのは柏餅だ。
「いえいえ。これで全部ですので……」
はけるといいですね、と続けようと思ったのだが、旭を数人の女性が取り囲み、甲高い声を上げて話しかける声に消えた。
客ではあるのだろう。
それぞれ経木の皮包みを持っていて、その中には柏餅が入っているであろうことがうかがえる。
もう少しで判子がたまる、とか、この帯揚げ、新しく買ったのよ、とせわしなく話しかけているのは、茶道の生徒さんたちだ。
旭は煩わしそうだが、なにしろ客なものだから邪険にもできない。はた目にも作り笑いで、相槌を打つが、それを見て別の女性が、我も我もと話しかけている。
「すごい人気だな、新しいあんちゃん」
背後から話しかけられ、美月は振り返る。
ちょうど逆光になった。
目を細め、焦点を合わせると、最近よく菓子を買ってくれる大工たちだった。肩に道具箱を担いだままのところを見ると、このまままた現場に行くのだろう。
「いらっしゃいませ」
美月が笑顔で言うと、片手を少し上げて応じてくれる。
「柏餅を人数分」
顎で背後をしゃくる。そこには、同僚とおぼしき、お揃いの法被を着た男性が三人立っていた。
「はい。あ。ポイントカード、持ってらっしゃいます?」
「おうよ」
言うなり、懐に手を突っ込み、カードを美月に差し出す。
当初は手書きだったこのカードも、版木屋に頼んで彫ってもらったおかげで、版画のようにプリントすることが可能になった。しかも、イラストを重ね押し出来るようにしてもらったので、当初一色しかなかったのが、三色も配合されている。
ポイントカード自体も徐々に浸透し、「ああっ。今日、持ってくるの忘れたっ」とまで言われるようになったのは嬉しい。
おまけで選べる菓子も、「いつもと違うものを」とチャレンジし、その商品のリピーターになってくれる客まで現れた。
(大口の茶道の先生方は離れちゃったけど……)
旭が初めて作った上生菓子を見た先生が、どうやら吹聴したらしい。
『あそこ、落ちたわよ』と。
そうして、『そういえば、
(
美月は腹立ただしい。
旭は初日以降、しっかりとレシピを読み込み、美月や狐の意見を取り入れて、祖父の上生菓子を再現し続けている。
それは、一般の常連客も同意見だ。
結果的に一時落ち込んだ売り上げは、ポイントカード目当ての客たちに下支えされており、祖父が亡くなって一か月。なんとか現状維持をしている。
「きゃあきゃあ、うるせえなあ」
前掛けのポケットから判子を取り出し、値段に応じて判子を押していると、大工が迷惑そうに旭にまとわりついている女子たちを睨んだ。
「おめぇ、仮にも旦那だろう? いいのか? あんなに女に囲まれて」
大工のひとりが、顎でしゃくる。
「まあ……。正式には、
肩を竦めてポイントカードを返す。
実際、契約結婚なのだ。旭が誰かを気に入り、その後どうなっても美月には関係ない。
ただ。
(……女関係で失敗した割には……。身持ちが固いのよねぇ)
旭は美月の手伝いをする関係で、厨房だけではなく、店舗の方にも顔を出す。
そのせいで、旭目当ての女性客が一気に増えたのだ。
婦女子に騒がれ、嬉しいだろうと思いきや、本人はひたすら恐縮し、怯え、客とは確実に太い一線を引いている。
きわどい誘い文句を女客から寄こされる場合もあるが、
『わたしには、許嫁がいますから』
と、きっぱりと断るのを美月は何度も見ている。
「美月さん、柏餅、いくつですか?」
蒸籠のフタを開けながら、旭が大声で尋ねてきた。
「よっつ、お願いします」
返事をすると、ちくりとする視線に気づく。
顔を動かすと、旭にまとわりついている婦女子たちだ。
意味ありげにこちらを見やり、ひそひそと小声でなにか言っては、意地悪く笑っている。
(やな感じ)
そう思いながらも、顔ではにっこり笑った。
「お買い上げ、ありがとうございます。またのお越しを」
やんわりと、「早く帰れ」と伝えたら、今度ははっきりと睨まれたが、無視をする。
「おめぇさん、ほんと、じいさんが亡くなってから変わったよなぁ」
やり取りを見ていた大工が、まじまじと美月を見つめる。
「そう、ですか?」
ポイントカードを返し、首を傾げて見せると、数人の大工たちが笑う。
「そうさ。堂々としたもんだ。おまけに、ほれ。なんてったって、おめぇさん目当てに、おれらはこの店通ってんだからな」
「ま。あの女客どもをとやかく言えねぇや。おめえの顔を見るのが目的なんだからな」
どっと笑われても、美月はいまいち納得いかない。
「なんかこう、さ。明るくなったというか。きびきびしてきた、っていうか」
その説明の仕方の方が、美月にはしっくりくる。
確かにそうかもしれない。
今から考えれば、前世の記憶が戻るまで、美月はどこか夢見がちなところがあった。
祖父からも、『気づけばぼんやりしてるなぁ』と苦笑いされたことが幾度となくある。
何か足りない。
いつもそう思っていた。
それはきっと、記憶だったのだろう。
それが蘇った今、符号があったように、美月は今まで、ぼんやりと過ごしてきた日々が、がいきいきと輝いて見えた。
「芍薬庵の若旦那も、おめえさんのことを狙ってんだろう?」
大工に言われ、美月は知らずに顔をしかめた。周のことだろう。
「なんでい。そんな顔をするってことは、脈無しだな。じゃあ、おいらにも勝機があるかいね」
大工が美月の顎を捕らえて自分の方に向けるから、美月は驚いて身を固くする。
だが。
不意に腕をとられ、ぐい、と後ろに引かれた。
「申し訳ありませんが、お客様。勝機も何も、わたしの妻ですから」
気づくと目の前に旭の背中が広がっている。
どうやら、立ちはだかってくれているらしい。
旭が、経木皮に包んだ柏餅を押し付けると、大工たちが、どっと笑った。
「怖い怖い」「旦那の前で女房口説くなよ」「そう怒んな、って」
大工たちは口々に言うと、旭に代金を支払い、美月に手を振って去って行った。
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