第13話 おにぎり

「大丈夫でしたか、美月みつきさん」


 遠くに行くまで、じっとりと睨みつけていたあさひだが、随分と遠ざかったのを確認し、くるりと振り返る。


 腰を屈め、鼻先が触れそうな距離で見つめては、む、と顔をしかめた。


「顎に汚れが……」


 そう言って、美月の顎に指を添え、親指でぐい、と大工がつけたであろう汚れを拭い取った。


 なんとなく、おとなしくされるままにしていると、旭と目が合う。

 顎をとらえ、美月の顔を間近で見つめる旭。


 長い睫毛に、形の良い目。鼻筋は通っていて、唇は口角になるほど、少し上がっている。


(綺麗な顔だなぁ)


 男にしておくのはもったない。

 ほれぼれと見つめていたら、急に旭が首まで真っ赤になって顔を逸らした。


「す、すいません。出過ぎた真似を……」

「いえいえ。こちらこそ、お手を煩わせて……。そういえば、女の子たちはどうなりました?」


 苦笑いをして一歩下がると、旭は捨てられた子犬のような表情をするから、ちょっと驚く。


(ん? 離れちゃだめだったの?)


 正解が分からず、うろうろと視線を彷徨わせながら、店先を見回すが、あれだけかしましかった女性たちの姿は、もうない。


「美月さんが声をかけたら、みんな帰りましたよ。助かりました」

 旭は、やれやれとばかりに笑う。


「今日も、すごい客でしたね。あっという間に、最後の蒸籠ですよ」


 美月は旭と並び、湯気を上げ続ける簡易かまどに近づいた。

 五月になり、柏餅を店頭に出したところ、いつにもまして客が来るようになった。


「美月さんの提案通り、蒸籠せいろを店先に出したのがよかったんでしょう」


 そろそろ火を止めようと思っているらしい。旭はかがみ込み、火のついた木を引き出しては、水桶の中に放り込む。じゅう、と盛大な音を立てて火が消え、白煙を吐き出した。


「デモンストレーションすれば客が来る、って思ってたんですよね」

 ふふん、と美月は胸を張る。


 この大通りだけでも、和菓子屋は何軒かあるが、実質今年の柏餅は睡蓮すいれんの一人勝ちだ。


 五月になるやいなや、狐も手伝わせて簡易かまどを店先に出し、毎日蒸気を上げ続けた。


 イメージ的には、コンビニの肉まんだ。

 結果的に成功し、みな、実際に蒸籠で蒸したての柏餅を求め、列をなした。


「さすがです」

 旭が美月を見上げてほほ笑むから、こそばゆい。


「でも、リピーターが多いのは、旭さんの腕がいいからですよ。みな、おじいちゃんと同じ味がする、って言ってくれてるもの」


 それは嘘ではない。

 古くからの常連であればあるほど、懐かし気にそう言ってくれるのだ。


「ありがとうございます。精進した甲斐がありました」

扇丸おうぎまるさんも、初来店以来大人買いしてくれるしね」


 例の他店を紹介してくれとやってきたあの青年。

 彼はその後も足しげく通ってくれる。


『友人のも、うまいと喜んでいた。上生菓子をくれ』


 そうして、着実に腕を上げる旭の上生菓子の太客ふときゃくになってくれたのだ。


 つい先日も『初めての柏餅だ』と、喜び勇んで列に並び、早瀬に大きな風呂敷を持たせて帰って行った。


「あ。おるおる。なあ、美月ぃ、旭ぃ」


 呼びかけられて振り返ると、狐が手を振って駆け寄ってきていた。


 五月晴れのもと、彼の右耳についた翡翠の耳輪が、きらりと輝いている。書生姿でにこにこ笑ってそこに存在する彼が、本当に神狐しんこだとは思えない。


「柏餅、五十個ほどある?」

「五十個!?」


 さすがに口から素っ頓狂な声が漏れた。それは、旭も同じらしく、火勢の弱まった簡易かまどの側で呆気にとられている。


「もう、十個あるかないかよ?」


 蒸籠の蓋を開けて確認する。もわりと噴き上がる蒸気を手で扇いで飛ばしてみたが、やはりそんなものだ。


「えー。追加で作ってえな」


 狐が眉を下げて言うが、もう二時を過ぎている。今から追加で、となると明日の準備もあるし、段取りが狂ってしまう。


「明日じゃダメなんですか?」


 旭が立ち上がり、狐に尋ねる。狐は外見に似合わない幼い仕草で頬を膨らませて見せた。


「僕かてそう言うたんやけど、姉御が『どうしても食べたい』って」

「姉御?」


 美月が首を傾げて尋ねたが、狐は曖昧に濁し、両手を合わせて見せた。


「今晩の、八時。弥勒寺みろくじの境内に五十個、お願いしたいねん。あかんか? 配達料もはずむで。……僕が払うんやないけど」


「弥勒寺って、あそこ廃寺はいじじゃなかった?」


 胡散臭げに美月は眉根を寄せる。狐は、「しっ」と立てた人差し指を唇に寄せて片目をつむって見せる。


(……まさか、もののけ仲間じゃないでしょうね)


 むう、と睨みつけてやるが、狐は、すい、と視線を外して旭に、「お願い、お願い」と言っている。


「どう……、しましょうかね」

 旭が美月に尋ねる。


「無視してもいいですよ。旭さん、五月に入ってからずっと、暑い仕事場で頑張ってるんだし」


「殺生な。なあ、頼むわー」


 狐が素っ頓狂な声を上げる。

 美月はため息をついて、旭を見上げる。肩を竦めてみせるが、旭は手拭い越しに頭をがしがしと掻き、苦笑いを浮かべた。


信田しのださん、ひとつ、貸しですからね」

「ええ奴やなあ、お前は! ありがとう!」

 狐が旭の首に抱き着くのを、美月はあきれた様子で眺めた。


◇◇◇◇


 その日の晩。

 提灯を手に、美月は旭と共に一本道を歩いていた。


 馬車や荷車も通れる幅広の道は、弥勒寺に近づくにつれ、細くなっていく。代わりに、色濃くなるのは、杉林が作る闇だ。


 ざわり、と風が強く吹き、美月は首を竦める。


 葉や枝が揺れるたびに闇が散らされ、新月が雲に隠れた。

 美月は知らずにぎゅっと提灯の弓と呼ばれる持ち手部分を握りしめる。

 ぶるり、と身体が震えたのは、首筋に季節外れの寒風が吹き込んだからだ。


「寒いですか、美月さん」

 すぐ隣から声が聞こえる。


「いえ。大丈夫です」

 笑顔で返すが、旭は腰を屈めるようにして顔を覗き込んできた。


「湯冷めしたら大変です。わたしの羽織……」

 片手に柏餅を詰めた重箱を持ったまま、羽織を脱ごうとするので、慌てて制する。


「ほんと、大丈夫です。さっきまで暑かったぐらいなんですから」


 厨房で柏餅の準備をし、交替で風呂に入りながら、夕飯代わりのおにぎりを頬張ったあたりでは、額にうっすらと汗をかいていたほどだったのだ。


 だから、配達に出かける時、旭が『上着はいいんですか』としつこいぐらいに聞かれても、大丈夫、と断り続けた。


(風が強いのかな)


 火袋ひぶくろが大きく揺れ、杉がうねる。

 夜空を見上げれば、鼈甲飴べっこうあめと同じ色の三日月が雲を従えていた。


「すいません、わたしに土地勘があれば、美月さんに家に残ってもらっていたんですが……」

 気づくと、旭がしょんぼりと肩を落としているから、思わず吹き出す。


「それ、旭さんの悪い癖ですよ。すぐ、自分が悪い、って言うやつ」

「でも……」


「悪いっていうなら、きつ……、信田が悪いに決まってるじゃないですか。時間外労働だし……。延長料金ふんだくってやんなきゃ」

 そう言うと、旭はようやく唇の端に笑みをにじませた。


「それに、私こそ今日の夕飯はごめんなさい」

「夕飯?」

 提灯のおぼろげな光の中、きょとんとした旭の顔が見える。


「柏餅とか明日の準備のせいで、おにぎりだけになっちゃったでしょ?」


 申し訳ないと言えば、美月にとってこれほど申し訳ないことはない。


 一応、旭と一緒に暮らすうえで、家事の役割分担は出来ていた。

 居住部分の掃除は美月。店舗部分の掃除は旭。

 食事作りは美月。片付けは旭。

 洗濯は美月。菓子作りに必要な材料の発注は旭。


 最初は、すべて美月がやっていたのだが、「それでは申し訳がない」と、旭が申し出て、今のような形になっている。


 厨房を主に旭が使うため、当初「料理はわたしがしましょうか」と言ってくれたのだが、棒手振ぼてふりや商店街のつきあいなどもあり、美月が引き続き行うことになった。


 主担当である限りは、美月は、ちゃんとやりたい方だ。

 手を抜くのは好きじゃない。


 それに、自分自身、ご飯を作るのは好きだったし、旭も「おいしい」といつも言ってくれるから作り甲斐があった。


 の、だが。 


 今晩ばかりはどうしようもなかった。手が回らなかったのだ。

 だから、夕飯というよりは、単純に空腹を満たすためだけに、おにぎりを作り、ふたりして頬張ったのだった。


「おにぎり、好きですよ」

 旭は重箱のくるまった風呂敷包みを右から左に持ち替え、美月に少し近づいた。


「ひと手間かかってるところが好きです」

「ひと手間?」


 美月は顔を上げ、首を傾げる。逆に手抜きのような気がするが。


「だって、茶碗に、どん、と白米を盛るだけの方が楽じゃないですか」

 くすり、と旭は笑う。


「……そりゃあ、そうかもしれないけど」

 つい、美月は口を尖らせた。


「手を洗って、塩をつけて。熱いのを我慢して三角の形にして。ついでに、美月さんは、中に梅干しと、昆布まで入れてくれて」

 旭は指を折っていく。


「これぐらいの大きさなら、一個かな、二個かな、って考えて。やっぱり、海苔も巻こう。お皿はこれでいいかな、あっちかな、って。ね?」

 美月を見つめ、ふわりと旭は微笑んだ。


「ひと手間どころか、たくさんの手間がかかってて。わたしは、本当にありがたいな、って思っていますよ」


 その旭の笑みが。


 上空の一等星よりもきらきらとしていて、さっきまで、少し寒いと思っていたのに、また頬が熱くなる。


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