第14話 噂
「そう言ってもらえると……。少し、気が、楽になります」
俯き加減にぼそぼそと応じる。なんだか、
「わたしも、そんなひと手間が必要だなぁ、と思っています」
「旭さんが?」
なんのことだろう、と、尋ねる。
「
「芍薬庵?」
思わず素っ頓狂な声を上げて、旭を見上げる。
伯父夫婦の店だ。
大口の茶道の先生方を取り込んだのだから、さぞかし満足しているだろうとおもっていたのに。
「しじみ売りの方にお聞きしました。わたしの作る菓子が、芍薬庵さんの真似をしている、と」
口をへの字に曲げ、少しばかり旭は肩を竦める。
しじみ売り。
噂を美月のところだけで止めていたのに、直接言ってしまったらしい。
しまった、と思うのと同時に、口をついて言葉が出る。
「ばっかじゃないの」
「だって、おじいちゃんの弟子じゃない。ふたりとも。おんなじになるに決まっているじゃない」
『春の娘』こそ違ったが、その後、旭が作る上生菓子は、祖父の作った菓子をなぞるものばかりだ。
緑色のそぼろの上に、つばめの形に押し切った薄い羊羹を乗せた『
祖父が大事にしてきた生菓子だった。常連客も皆、『この時期になったねぇ』と、菓子を見ていったものだ。
当然、同じものは、芍薬庵でも出されることだろう。
弟子なのだ。
師匠である祖父の菓子は、当然習得している。
「それを……、真似てる、ですって……?」
ふつふつと怒りが沸き上がる。
なんとなく、想像ができた。
きっと、自慢げに茶道の先生方に吹聴しているのだ。
『真似されて困っているんですよ。本家はうちなんですよ』と。
「安心してください、旭さん」
ぎらり、と瞳をたぎらせて美月は旭を見る。
「そんな馬鹿な伯父には、私自ら鉄槌を下して成敗してやりますからっ」
「冗談でもそういうのやめてくださいっ」
「冗談でも何でもないことを、世間に知らしめてやりますよっ」
空いた方の拳を握りしめて鼻息荒く詰め寄る。
「いや、大丈夫です!」
旭は背をのけぞらせて一瞬怯えたものの。
ふわり、と笑って、美月の握りこぶしに触れた。
「わたし自身の力で、見せつけてやりますから」
拳を上から包み込まれ、鼻先を近づけて穏やかに旭は言う。
その声が。
吐息が。
まつげを揺らし、頬を撫でる。
美月は、ぽわり、と酔った心地でしばらく旭の顔を見つめていたが。
「そ、そそそそそ、そうですか」
なんだか気恥ずかしくなって、慌てて距離を取る。
提灯を持ったまま、足早に
「今度、『あじさい』を出すんですが」
背後からのんびりとした旭の声が追いかけて来る。
「ああ……、もうすぐ六月ですもんね」
まだちょっと顔が熱くて振り返れない。
美月は提灯で前方を照らしながら答える。
『あじさい』は、しぐれの上生菓子だ。
色とりどりの薄く切った羊羹をまぶし、雨に濡れたあじさいを表現する。
「それに、もうひと手間加えたいんです。ですから、ひょっとしたら、睡蓮さんの『あじさい』とは別物になるかもしれませんが……」
どこか申し訳なさそうに言うから、美月は振り返る。
「構いませんよ。どうせまた、芍薬庵も同じものを出すでしょうから。こっちはアレンジ加えちゃいましょう」
大きく頷くと、薄闇の中で旭が安堵したのが見えた。
「お客様自身に、こう……、ひと動作していただこうと思うんですよね」
旭は足早に近づき、美月に並んでひとしきり、自分の案を口にする。
うんうん、と美月も頷きながら聞く。
闇の中、提灯だけをたよりに歩いていると、彼の声はとても耳に心地よい。
時折強く吹く風の音も、不安にならなくなってきた。
「この階段をのぼったら、弥勒寺です」
細道の先は、苔むした石段だ。
欠けた巨石に「弥勒寺」と記されているはずだが、今は闇に沈んでどこにあるのか判然としない。
美月は提灯を掲げて石段を示すと、旭より先に階段を登り始める。
「美月さんは、ないんですか?」
数歩後ろから、旭の声がする。
苔のせいか、足をかけても、なんだか心もとなかった。旭は大丈夫だろうか、と思いながら、美月は答えた。
「なにがですか?」
「やりたいことです。
「やりたいこと?」
ちらりと視線だけ向けると、旭が頷く。
「ポイントカード以外に」
「そうですねぇ」
百段以上はある単調な階段を見上げ、美月は頭を巡らせる。
「カフェスペースを作りたいなあ、とは考えてました」
「カフェ、ですか」
驚いた声に、美月は笑う。
「喫茶スペースのことです。テーブルやいすを置いて……。持ち帰りではなく、お菓子をそこで召し上がっていただくのはどうかな、と。ほら、食べてすぐの感想や表情が、こちら側で確認できるじゃないですか」
「なるほど……。そんなこと、考えたこともなかったです」
「冬の間は寒いからちょっと無理ですが……。今から夏に向かいますし。なにかこう……。涼し気で華やかな菓子を、往来から見える位置で召し上がってもらえたら……。宣伝にもなると思うんですよね。『わ。あのお菓子、なに!?』みたいな」
「そうですね。他人が食べているもの、って特においしそうに見えますし」
「でしょう?!」
勢い込んで振り返った時。
苔に足が滑る。
わずかに背がのけぞり、慌てて腰を落とそうとしたところを。
がっしりと、背後から抱きしめられた。
「あ、あぶな……」
冷や汗が一気に噴き出す。声を漏らしたものの、さすがに震えた。
バランスを取ろうと、ぴんと伸ばした提灯が、大きく左右に揺れている。だが、中の蝋燭も無事で、火袋に燃え移ることもなかった。
「大丈夫ですか、美月さん」
声が。
背後から首筋を撫で、腰に回された腕の力強さに今更ながら意識させた。
「は……」
はい、と言おうとして瞳だけ動かす。
すぐ真後ろに、旭がいる。
美月は彼に、抱きしめられていた。
寒風が吹いた。
旭の身体から、ほんの少しの
目が、合う。
暗闇の中とはいえ、流石にこの距離だと、互いの表情がよく見えた。
長いまつげに縁どられた、黒瑪瑙のような旭の瞳は、心配げに自分を見ている。
人形のような肌は上気し、形の良い唇はもう一度なにかを問おうとしていた。
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