第47話 わたしは、ひとりじゃない
◇◇◇◇
次の日の朝。
開店準備を終えた美月は、ずーん、と暗い顔で、旭の前に立っていた。
「……本当に、食べるんですか?」
「もちろんです。ずっと、楽しみだったんですから」
正確には、盆の上に乗せられた小倉バターを、だ。
『わたしがいない間に出していたという朝生菓子を、作ってもらえませんか?』
旭が、今日の分のあんを炊き終わったので、さて朝ご飯の準備しようと、前掛けをつけて厨房に入った美月に、旭はわくわくした表情で言ったのだ。
『小倉バターが食べたいんです』
と。
『
そんなたいしたもんじゃないんですよ、と美月は言うのに、彼はしきりに『食べたい』『見たい』と繰り返した。
(苦し紛れに作ったものなんだけど……)
ちらり、と美月は盆の上の小倉バターに視線を移動させる。
昨日までは、旭のことが心配で心配で仕方なかったが。
これを出せ、という旭が憎い。
だいたい、昨日のあんこがまだ大丈夫、というこの丈夫さにも腹が立つ。大量の砂糖で煮ているので、結構日持ちがするのだ。美月的には、餡、というより、小豆のジャム、だ。
(……残しておくんじゃなかった……)
陶器の皿にのったそれは、旭が作る上生菓子とは全く見た目が違う。
武骨で、派手さもなく、繊細さなどどこにもなく、どっしりとしていた。
どら焼きの皮の上に、粒餡とバターを載せただけのもの。
美月は、居間に入り、障子を閉める。
旭の隣に座り、ちゃぶ台の上に、小倉バターとお茶を置いた。
「食べてもいいですか?」
嬉々として旭が尋ねるから、おずおずと頷く。
「その……、初めて餡を炊いてみたんですが、塩加減がわからなくて……」
旭が不在の間、店をずっと閉めておくわけにはいかない。
自分でなんとかしてみよう、と餡を炊いてみたものの、とてもじゃないが、祖父にも旭にも及ばなかった。
自分で作り上げた粒餡を一口食べ、『……ただ、甘いだけだな』と落ち込む。これって、塩加減が大事なんだ、と気づいた時、ふと、思い出した。
(小倉トーストってあったよね)
名古屋発祥だったか。モーニングメニューのひとつだったような気がする。
熱々のトーストにたっぷりのバターかマーガリンを塗り、その上にあんこを載せるのだ。
あんこの甘さと、バターのしょっぱさが見事にマッチしていた。
『食べる時、しょっぱいのを足せばいいんじゃないの』
呟くと同時に、美月は狐に店番を任せ、表に飛び出した。走る途中で車夫を捕まえ、全速力で設楽邸に向かってくれ、と伝え、なんとか、バターを手に入れたのだ。
「いただきます」
きちんと手を合わせ、旭は小倉バターを手に取る。
女子の客は黒文字で切り、口に運んでいたが、旭は片手で持ち上げて、そのまま、ぱくりと半分程度を口に入れる。
もぐもぐと咀嚼している旭を、美月は盆を前抱きにして固唾を飲んで見守った。
「美味しいですね。こんな食べ合わせ、考えたこともありませんでした」
満面の笑みを浮かべる旭に、美月は、へなへなとちゃぶ台にもたれかかる。
「よかった……。いや、もう……。苦し紛れの一撃でした」
美月の言葉に、旭が笑う。
「定期的に出すんですか? カフェスペースで」
「いやあ……、ちょっと様子を見ます」
美月は苦笑いし、盆を脇に置いた。もぞもぞと座りなおす美月に、旭は不思議そうに小首を傾げる。
「周さんの話では人気があったと」
「人気かどうか……。最初は、
カフェスペースのお披露目を兼ねて、狐のお仲間を招き、満席にしたのだ。
不思議なもので、それだけで、常連客はもとより、足を止める客が増えた。もともと、狐のお仲間たちは新し物好きが多いらしく、小倉バターも喜んで口にしたので、その姿を見た客たちが、おっかなびっくり買っていくようになったのだ。
「
美月は言葉を濁した。
自分としては、旭が戻るまでの場つなぎのつもりだったし、店を一日でも閉めるのが嫌だった。なんとか菓子を作らざるをえなかった。
旭が戻って来た時。
閉まっている店を見たら、なんとなくがっかりされる気がしたのだ。
自分がいないと、何もできないのか。
そんな風に思われたくなかった。
「これ、もう少し全体的に小さくして、お抹茶と一緒に出してみませんか?」
旭が自分の手を見る。そこには、まだ半分残っている小倉バターがあった。
「きっと、もっと印象が変わるとおもうんですよ」
微笑まれ、美月は肩の力がほんの少し抜ける気がした。
「そう……、ですか?」
「ええ。カフェスペースを続けるのであれば、こちらの商品も定番にしましょう。だって、すごく美味しいのに」
旭はそう言うと、残りの小倉バターを一口で食べきった。
「安心しました……」
ほう、と美月は息を吐き、弛緩したように笑った。
「なんか、実際にお菓子を作ってお客様に出してみて……。私、旭さんの気持ちがちょっとわかった、っていうか……」
「わたし?」
湯呑に手を伸ばし、お茶を含んだ旭が、不思議そうに首を傾げる。
「初めて上生菓子を旭さんが出した時、あったじゃないですか」
「……………あれは、わたしの黒歴史です…………」
がっくりと項垂れる旭に、慌てて美月は顔を寄せる。
「違うんです。あの時私、どうしてこんなに上手に作れるのに、自信がないんだ、とか思ってて……。だけど」
美月は首を竦める。
「自分なりに工夫して、これでどうだ、って思ったもので勝負をするのって、実際、怖いんだな、って思ったんです。評価を得るって、こういうことか、って」
中には、小倉バターをはっきりと「まずそう」と言い切る客もあった。
「餡が失敗したんだろ」と、周にも、はっきり言われた。
それ以上に、たくさん「美味しかった」「これいいね」「ごちそうさま」と言ってくれる客がいるというのに、店を閉め、片づけをしている時に耳に残るのは、低評価の声ばかりだ。
「それなのに、私、旭さんにそんなしんどいことばっかり押し付けて……」
「いえいえ。わたしは、菓子作りを担当させてもらって、光栄だと思っているんですよ」
旭は慌てて湯呑をちゃぶ台に置くと、美月に向き直る。
「確かに、いろんな評価をいただきますし、実際つらい思いをしたりもしましたが」
気づけば俯いていたのだが、旭は、そっとそんな美月の手を握った。
「わたしはひとりじゃない。美月さんがいましたから」
顔を上げた先で、旭は幸せそうに微笑む。
「誰よりも、わたしの菓子を褒めて、美味しいと言ってくれる美月さんがいれば、わたしは、わたしのことを誰よりも信じられる。わたし自身の、腕を」
「……旭さん」
つられて美月も頬を緩めると、旭は、ぎゅっと美月の手を一度だけ強く握る。そこから流れ込むのは、ひだまりのような温もり。
「ずっと、わたしの側にいてくれますか? これからも、ずっと」
「もちろん」
頷いた矢先、旭が少し腰を浮かせる。
反射的に身を引こうとした美月だが。
手から伝わる温もりが、美月をその場にとどまらせた。
ふわり、と。
旭の呼気が睫毛を撫でる。
少し、バターと甘い香りがした。
美月は、そっと目を閉じる。
そんな彼女と旭の唇が重なろうとした刹那。
からり、と玄関の扉が開く音がした。
「おはよー、旭ぃ、戻ってるんやろ?」
狐らしい。
慌てて美月は飛びすさり、旭は苦笑いする。
てててて、と廊下を走る音がし、障子を開けて、ひょっこりと書生姿の狐が顔を出した。
「昨日、
狐が旭に笑いかける。旭は頷きながらも、眉を寄せた。
「飲むって……。扇丸さん、皇太子なんでしょう?」
「なんかようわからんけど、ええんちゃう? それよりさ、ちょっと、外出てみいな。虹が出てんねんで」
急かされ、美月と旭は狐と一緒に玄関を出た。
住居用の玄関は、店舗とは違い、裏道に面している。
いつの間にか小雨が降ったらしい。路面がぬれていた。
三人で肩を並べ、裏道を通って大通りに出る。
「これはすごい」
旭が手庇にして空を仰ぎ、感嘆の声を上げた。美月もその隣で大きく頷く。
大通りいっぱいの空に、くっきりとした虹がかかり、さんさんと日の光が注いでいた。
美月たちと同じように、店を出て虹を眺めている商人も多い。目が合うと、互いに笑顔で会釈した。
「なんか、ええことある気がするやん?」
「じゃあ、美月さん。今日、手がすいたら行きましょうか」
旭に言われ、美月はきょとんと彼を見上げる。
「どこに、ですか?」
「昨日、約束したじゃないですか。役所に婚姻届けを出しに行きましょう」
笑顔で言う旭に呆気に取られていたら、狐が陽気に笑った。
「そりゃええわ。ぼくが店番しといたるから、行っといで」
おずおずと頷く美月の前を、勢いよく燕が飛んでいく。風を切った黒い小さな鳥は、その後、鮮やかな葉を揺らす柳の周囲を旋回した。
「
狐は笑い、美月は旭と顔を見合わせた。
「末永く、どうぞ」
旭が目を細める。
「よろしくお願いします」
美月も笑った。
ふたりと、一神の周囲を、夏らしい、からりとした気持ちの良い風が吹き抜けていった。
了
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