第44話 あなたの香り
「ど、……、どうして」
わかったのか、と言う間もなく、
きっちりとした距離も位置もわからないというのに、歩み寄ろうとする旭に。
「ああ、やっぱり美月さんだ」
ぎゅ、ときつく抱きしめられ、首元に顔を埋めた旭が、嬉し気に呟いた。
「だって、あなたの香りがしたから」
その声が。
吐息が。
熱が。
美月の身体に流れ込み、細胞がふつふつと炭酸のように沸き立つような気がした。
「あ、
涙が流れるままに、美月は顔を押し付けた。旭はくすぐったげに笑い、「元気そうでよかった」と、美月の首元にキスを落とそうとするのだが。
「……ん? 美月さん、変わった服を着ているんですね。洋服、ですか……?」
どうやらハイカラーが邪魔になったらしい。すい、と顔を起こし、目をすがめて美月をよく見ようとするから、涙が止まった。
「や、ややややや、やっぱり、目が見えないんですか……っ」
徐々に血の気が引く。
旭の背広にしがみついたまま尋ねると、旭は苦笑した。
「捕まった初日に、何度も何度も、しつこく逃げようとしたので、警戒されているようです。一時的に視力が悪くなる薬を飲まされてしまいました。まったく見えない、ってことはないんですが……、ものの形が、おぼろげにわかるぐらいですね」
「大丈夫なんですか、それ!」
医者……、医者に診せなくっちゃ、と足踏みをする美月に対し、旭は比較的落ち着いてた。
「時間と共にもとに戻ると思いますよ。戻らないと、わたしは使い物になりませんから」
淡々とした声音だが、その内容に美月はぞっとする。
そうだ。
旭は、『有益だ』と思われたから、強引に連れ戻されたのだ。
美月は、ぐ、と奥歯を噛み締める。
やっぱり、旭はそんな家に見切りをつけ、出るべきだ。
「旭さん。もう大丈夫ですよ。奪還しに来ましたから」
顎を上げ、きっぱりと言い切る。それを聞き、旭は屈託なく笑った。
「わたしだけでは、どうやら逃げられないらしい。お手数ですが、奪還してください」
そう言った後、ふと、周囲を見回すようなしぐさをした。
「そのあたりに、兄はいませんか?」
「兄? 本家の、ですか?」
美月は旭の手を握ったまま周囲を見回すが、特に人影は見えない。
まだ
「どこにいるんだろう……」
不思議そうに言うので、美月は尋ねる。
「彼は入れたんですが、御所に」
「ええ。義母の
「園庭って……、ここ、公園並みの広さですよ?」
「困ったな……。そういえば、美月さんはどうやって紛れ込んだんです、ここに」
きょとんと旭が尋ねる。
「私はあれです。
「……ちょっと何言っているのか……」
「いや、私もそうでしたっ」
力説しようとした矢先、不意に伽賀の声が大きく聞こえた。
咄嗟に顔を向けると、
「あ、旭さん! とにかく、隠れてくださいっ!」
言うなり、近くのつつじの茂みに旭を座らせ、その前に自分が立ちはだかった。彼を連れて移動したかったが、時間がない。
「ほう、後継者か」
慈仁が鷹揚に頷きながら、不自然なほどゆっくり歩いていて、なんとか伽賀と高岡の到着を遅らせようとしていたが、それも限界がある。
気づけば、美月の側に到着してしまった。
「あれ……、旭さんは」
高岡が訝し気に周囲を見回し、伽賀も不審そうに旭の姿を探している。
「というか、彩女もどうしたのだ。ふたりでどこかに移動したのか?」
独り言ちた時、彼の視線が美月を捕らえる。びくり、と肩を震わせたが、菓子屋の小娘だと気づいたわけではないらしい。
「申し訳ありません、そこの御方。ここに、背広姿の男がおりませんでしたか」
軍服を見て『少年近衛兵』と思ったらしい。初めて丁寧語で話しかけられた。
「わ、私は、殿下しかみておりませんでしたので」
低い声でもっともらしいことを口にしてみる。
「予の警備兵である」
慈仁も慌てて援護射撃を出してくれた。
「優秀そうな
「将来立派な
伽賀と高岡から褒められたが、こののち、男に育つことはないし、兵士になる気もない美月としては、「はあ」とうなだれるしかない。というか、暗がりとはいえ、誰も女子だと気づかないことにかなりショックを受けた。
背後の茂みでは「いったい、美月さん、どんな格好しているんですか」と旭がおののいている。
「おじさま、高岡。お待たせしました」
小走りに近づくのは、彩女と蒼太朗だ。
「こちらのお方が、帯が崩れていると教えてくださって……。入場口のところで直してきましたの。お待たせいたしました」
彩女が優美に笑い、背後で蒼太朗もお愛想程度に会釈をする。
「旭は? 一緒ではないのか」
伽賀に問われ、彩女は長い睫毛をぱちぱち、と二度まばたきさせてみせた。
「え? こちらでお待ちください、とお伝えしたのですが……」
伽賀と彩女、高岡はしばらく顔を見合わせた途端、同時に察したらしい。
逃げた、と。
「お前たち、なにか見ていないのか……っ」
恐慌に陥る一歩手前で歯を食いしばり、伽賀がふたりを睨みつける。高岡は狼狽え、彩女は抜け目なく視線を周囲に走らせる。
「殿下、そろそろ天幕に戻りませんと」
蒼太朗が、静かに慈仁に声をかけた。
「おお、そうだな。
慈仁がゆったりと美月にも声をかける。
(ど、どうしよう……、私の背後にいるんですけど、まだ旭さんがっ)
どぎまぎしていると、怪訝そうな視線を彩女に向けられる。
同時に。
じりり、と焼けるような痛みが右腕に走る。
反射的に彩女を見た。
刺すような視線が自分を貫く。
「あなた……、ひょっとして」
すい、と目をすがめて美月に一歩近づく。
じり、と美月が一歩退いた。
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