第43話 親の恩 子の孝行

 それは、まだ開店準備前で、かつ、即席で作った小倉バターの準備にあまねや狐のお尻を叩いて働かせていた最中だった。


『申し訳ありません。現在、開店準備中でして……』


 営業スマイルを浮かべてのれんをくぐり、店舗に出た美月みつきは、そこにいた彩女あやめの姿を見て、凍り付く。


 ガーデンパーティで見た女。

 あさひに抱き着いてた女。


『あなたが、美月?』


 いきなり呼び捨てにされて面食らうが、じりり、と焼かれるような右腕の痛みに、我に返った。


『そうですが。あなたが、三倉彩女みくらあやめさんですか』

 固い声で応じると、何事か、と周と狐も厨房から顔を覗かせた。


『一時とはいえ、旭様がどのようなところで働いていたのかと思ってやって来たのですけど』


 店舗を見回し、彩女は袖口を手で隠して、わざとらしく咳をしてみせた。


『いやだ、空気が悪い。なんだか埃っぽいわ』


『………申し訳ありません。今日からカフェスペースを作るために、家具を動かしたり掃除をしたりしたので』

 ぶっきらぼうに応じてから、商品棚の天板に手を置き、身を乗り出す。


『それより、旭さんはそっちにいるんですよね。お元気ですか? 無事ですか?』

 勢い込んで聞くが、思い切り顔を顰められた。


『あなたみたいな身分の者が、あの方の名を気安く呼ばないでちょうだい』


 うわあ、嫌な女、死ね。

 背後で周が、美月に聞こえるようにだけ言った。


『旭様が執着なさるからどんな女かと思えば』


 くくく、と口元を手で隠して笑い、背後に控えている侍女に、『ねえ』と、目配せをした。


『まるで棒人形じゃない。着物を着てなきゃ、男か女かわかりゃしない』

『あほう、乳がでかけりゃ、ええってもんちゃうぞ!』


 咄嗟に何か言い返そうかと思ったのに、狐が暴言を吐いた。『おなじく、おなじく』。やっぱり、周が小声で同調する。


『まあ! なんて失礼なっ!』

 彩女は顔を真っ赤にして怒鳴りつけ、目を吊り上げて美月を睨みつけた。


『こんな下品な店で、数カ月とは言え旭様が生活なさったなんて……。おいたわしい。わたくしが、心を込めてお慰めせねば』


 じ、と美月に視線を定める。睨みつけられている間、右手が炙られているような痛みがあった。


『旭様のお情けは、気の迷いですわ。あんたみたいな女に、心が動かされるものですか』

 吐き捨てて、彩女は店を出て行った。




(気の迷い……)

 目の前で、腕を組んで歩く旭と彩女を見ていると、本当にそうなのだろうか、と心が揺らぎ、胸をえぐられたのような痛みがある。


「旭殿、なにか変ではないか?」

 だが、訝し気な蒼太朗そうたろうの声に、目をまたたかせた。


「旭さん……?」

 美月も目を凝らす。


 闇に眼が慣れたとはいえ、やはりはっきりと表情がわかるまでは見ることが出来ない。


「仲睦まじく腕を組んで歩いている、というわけではないのか」

 うむう、と慈仁いつひとが唸る。


 そのころには、美月も旭の動きが変だということは分かった。


 やたらゆっくりと歩き、彩女と腕を組んでいるが、仕方なく、という感じだ。その証拠に、彼女がしきりに話しかけていても、全く返事をしていない。


そして、時折、なにかに躓いては、組んでいない左手を宙に彷徨わせ、不安そうに足を止める。


 そのたび、高岡が振り返り、その手を下ろすように、指示したようだ。

 ようやく歩き出したものの、視線が変だ。


 他の三人は蛍を見てはしゃいでいるというのに。

 旭だけ、前方しか見ていない。


「あれ、目が見えてないんじゃ……」

 静かに蒼太朗が指摘し、美月は息を呑む。


「完全に視界を奪ったわけではないだろう。逃げないように薬を飲ませて、一時的に視力を弱くしたのではないか?」

 慈仁が苦々し気に言った。


扇丸おうぎまるよ」

 蒼太朗が呻くように名を呼んだ。


「なんだ」


「お前もそうだが、わたしも生まれながらに、家督を継ぐことが決まった者だ。ある意味、旭殿もそうだ。だから、その使命を放り出し、自分の決めた道を進む彼のことを、わたしはどこか、自分勝手な男だ、と思っていたところもある」


「ほう、そうだったのか」

 慈仁が驚き、にやりと笑った。


「その上、美月の婚約者だしな。さらに苦々しく思っていたことだろう」

 うるさい、と蒼太朗は、迷いなく慈仁の腹を殴った。


「それに、親の……。育ててもらった恩や、かけてもらった愛情は、一生涯をかけて返すものだ、とわたしは思っている。皆もそう心掛けるべきだ、と思っていた。そうしない者は、自分勝手だ、と。だが」

 蒼太朗は眉根をぎゅ、と寄せた。


「世の中には、様々な親がいるのだと、おもいしった。扇丸。わたしは、初めてお前と一緒に、外の世界に出たことを有難いと思ったぞ。あの親はひどい。我が子に毒を盛るとは……。あれは逃げた方が旭殿のためだ」


「親になっても、自分しか愛せぬものはいるものさ」

 慈仁は、ぽん、と蒼太朗の肩を叩く。


「そういった者は、誰からも離れられる。よく覚えておかねばなあ」

 呑気な口調で慈仁は言うと、美月に瞳を向けた。


「今から、とふたりでやつらの気を引く故、美月。お前は旭を奪還し、どこかに隠れておれ」


「「気を引くって、どうやって」」


 期せずして、蒼太朗と声が重なった。

 がさり、と慈仁は立ち上がる。


「とりあえず伽賀と……、なんかわからんが、その隣の男を引き受ける。あおは、あのけばけばした女を頼むぞ」


「…………………なにかっていうと、お前はそれだな」


 深いため息をつくなり、蒼太朗は立ち上がる。

 先になだらかな斜面を降りる慈仁についていきながら、蒼太朗は軍帽を被り直し、ズボンについた枯れ葉を、ぱんぱんと落としている。


(え……、ちょ、待って……)


 何をしたらいいのだ、自分は、とつつじの陰でおろおろしていると、慈仁が一行に近づき、親し気に声をかけ始めた。


 皇太子だ、と気づいたのだろう。


 伽賀と高岡がその場で平伏するから、慈仁が笑いながら、立つように促し、さりげなく彩女と旭から引き離していく。


 その間に、蒼太朗が騎士のような礼を彩女にした。

 彩女が、彼の美貌に、ぽう、と見惚れる。

 蒼太朗は、わずかに腰をかがめ、顔を近づけて彼女になにか囁いた。


 途端に彩女は、動揺した素振りを見せた。


 蒼太朗が彩女の帯についてなにか言っている。驚き、慌てふためいた彼女は、旭に何か告げて、蒼太朗に連れられ、入場口の方に戻っていった。


「い、いまだ……」

 呟き、美月は立ち上がった。


 きっと、今だ。

 具体的な指示も作戦も全く聞いておらず、とにかく、「奪還」としか言われなかったが、今がその時に違いない。


 美月は、坂道を駆けだす。


 勢いがつきすぎて、途中、何度か転びそうになり、腕が空回りする。だけど、勢いを止めず、必死に前に振り出し、走った。肩で飾緒がリズミカルに鳴り、佩刀が太ももを打つ。邪魔だ、とかなぐり捨てようかと思ったが。


 気づけば、旭のすぐ目の前まで近づいていて、慌てて速度を落とした。

 周囲に気づかれぬよう、荒い呼吸を押し殺し、様子を窺う。


 慈仁と伽賀、高岡の背中は見えるが、かなり距離がある。彩女と蒼太朗は、といえば、こちらはもう姿も見えない。


 美月はばくばくと高鳴る心臓を、軍服の上から押し付け、そっと旭に一歩踏み出す。


 旭は。


 何を彩女から言われたのかわからないが、ぼんやりとひとり、小道に立っている。


 見慣れない背広を着せられ、藍色のネクタイを締めていた。

 少し瘦せたのかもしれないが、まぎれもなく、旭だった。


 じわり、と、勝手に目から涙がにじむ。

 会えなくなって、まだひと月も経っていないというのに、胸に沸き起こるのは、猛烈ななつかしさと淋しさだった。


 旭は、やはり目が見えないのかもしれない。

 もう、間近にいるというのに、美月の方を見ようともしなかった。


 それがまた辛くて、美月は、涙をこらえた。

 すぐにでも抱き着きたい。

 だけど、そっと手を伸ばす。


(驚かせちゃいけない)


 まずは、声をかけ、ゆっくりと肩に触れよう。

 そう思ったのに。


 旭は、まばたきをしたかと思うと、不思議そうに美月の方に顔を向けた。


「美月さん、が……、いますか?」


 瞳は相変わらず茫洋としているが、それでも彼は確実に美月の方に身体を向けていた。


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