第32話 あお

◇◇◇◇


 あさひの顔から腫れが引き、本格的な梅雨に入ったのは、それから十日後のことだった。


「はい。じゃあ、これお願いね」


 商品を風呂敷に包み、その結び目に、こよりのついた睡蓮すいれんのチラシをくくりつける。


 B5サイズほどの荒半紙だ。

 そこには、大きなふくらすずめのイラストと、菓子屋睡蓮の文字がステンシルで描かれている。美月みつきの手作りだ。


「ありがとうございます」

 子守奉公こもりぼうこうの女の子が、もごもごと口の中の団子を必死に咀嚼するから、美月は笑った。


「慌てて食べなくても大丈夫よ」


 女の子は顔を真っ赤にして照れ、それでも急いで飲み込むと、おずおずと串を美月にさしだす。美月はそれを受け取ってゴミ箱に捨てると、女の子はおんぶ紐を締め直して、背中の赤ん坊の位置を正した。その後、美月に両手を差し出す。


 美月は、まだまだ小さい彼女の手に、大きな風呂敷包みを渡した。


 このとき、いつも美月は切なくなる。

 この子だって、まだ小学校低学年ぐらいだ。


 美月が前世で生きていた時代なら、赤ん坊ではなくランドセルを背負って小学校に通い、同級生たちと勉学に励んでいたころだろう。給食だって、お腹いっぱい食べたに違いない。


 だが、彼女が背にしているのは、雇い主の子であり、手荷物は雇い主の荷物だ。満腹になるまで食事を摂ったこともない。


 子守奉公は過酷だ。

 まだ幼い子なのに、さらに幼い子の面倒を昼夜なく見る。大人でも根を上げるのに、ひとりで乳幼児の世話をしながら、他の大人たちと混じって雑用を昼夜なく行う。


『いいお母さんになるよ』

 子守奉公の女の子たちは、そう言い含められて奉公に出される。


 きれいごとだ。

 もし、それが本当なら、〝いいお母さん〟とはなんだろう。美月は怒りを通り越して醒めていた。


 誰かが誰かの苦労を一身に背負うことが、〝いいお母さん〟なのだろうか。


「ありがとうございました」

 ぺこりと、と頭を下げる女の子の、おかっぱの髪が揺れた。


「こちらこそ、よろしくね」

 美月は微笑む。


 当初、ポイントカードがたまり、おまけの菓子がもらえれば、この子守奉公の女の子や、丁稚でっちの男の子たちが、駄賃代わりに雇い主から菓子が貰えるかと思ったが。


 美月が甘かった。

 当然のように、おまけの菓子は、大人が食ったのだ。


 そこで、美月は「奉公の子どもがおつかいで菓子を買いに来た場合」に限り、風呂敷に店を宣伝するチラシをくくりつけることにした。その、迷惑料兼広告料として、奉公の子どもたちに、店で串団子を一本サービスすることにしたのだ。


 決して持ち帰らせない。その場で食べるように子どもたちに伝えている。


 持ち帰る、とは。

 それは、誰かに命じられているからに他ならない。


 店じゃないどこかで、ゆっくり食べたいわけじゃない。

 本当は、その場ですぐにでも味わいたいのに、あに弟子であったり、年配の誰かが命じて、取り上げようとしているのだ。


 もし、駄賃代わりに菓子をもらうことが「ずるい」「自分も欲しい」と思うのなら、あに弟子か、その年配の誰かが、子どもを背負ってやって来ればいいと美月は思う。喜んで、菓子をやろう。その子の負担が減るのならありがたいものだ。


「これ、よく話しかけられるんです」


 風呂敷をしっかりと胸の前で抱えた女の子は、はにかむ。

 背負い紐が、彼女の肩に食い込んでいた。湿気と気温が上がる今からは、背中も蒸れることだろう。美月はいたたまれなくなって、視線を逸らす。


「チラシ?」

「はい。この絵はなんなの、とか。どこのお店で、品はどうなの、とか」

 一定の効果はあるらしい。美月は、「そう」と頷く。


「きれいなお姉さんと、かっこいいお兄さんが、とっても美味しいお菓子を作って売っています、って答えています」


 なんか、面と向かって言われると、恥ずかしい。


「そ、それはどうも……」

「それでは、失礼します」


 女の子は会釈をし、店を出て行く。背中では、赤ん坊が「あー」と盛大に喃語を発し、そのタイミングの良さに、女の子も美月も声を立てて笑った。


(さて、じゃあ、旭さんが帰ってくる前に、掃除を片付けなくっちゃ……)


 ぐん、と伸びをする。洋服じゃないから、肩回りが窮屈だ。

 美月は、商品棚の裏に回りながら、段取りを考える。


 このところ、どうにも家事が思い通りにならない。

 原因は旭だ。


『じゃあ、毎日抱きしめましょう』

 提案した通り、彼は毎日美月を腕に囲い、そしてキスをする。


 美月的には、大変ありがたい。

 奇妙な寒気や、ぴりぴりとした痛みが去るのだから、とても嬉しい。狐も、『お前、最近悪意がついとらへんな』と言っている。


 だけど。

 そのとき、キスはいらないんじゃないか、と思う。


 いつも、長すぎるハグをした後、彼は美月と唇を重ねて来る。


『その……。ハグだけでいいんですが』

 意を決して旭に言ってみても、彼は素知らぬ顔で、『ここまでが一連の流れですから』とか言う。


 しかも、最近はエスカレートしていて、彼の手が美月の身体に触れようとする。いや、実際、触れてくることもしばしばだった。


 危なっかしくて、夜は、接近禁止を命じるほどだ。


(どんどん、段取りがくるっていくんだもんなぁ)


 ハグだのキスだのされたあと、美月だけが、どぎまぎし、顔を真っ赤にしたり、時折思い出して、身体中から熱を発したり、と、とんでもないことになっている。悔しいことに、旭はいつも通りなのだ。


 ほう、とため息をつく。


(夜、近づくなって言ってるからかな……)

 ふと、そんな気付きを得る。


『このまま、一緒の部屋で過ごしませんか』


 旭に言われ、逃げ出したことがあり、それ以降、夜は近づくな、と厳命している。

 それの、せいだろうか。


 朝だけ、ってなってるから集中してこんなことになるのだろうか。

 濃くなるんだろうか。

 ああ。だったら、分散すれば……。


(いやいやいやいや!! もっとどんなことになるやら!)

 思考がおかしくなっている、と首をぶんぶんと横に振っていたら。


「ひとり百面相か」

 いきなり声をかけられ、小さく「うわっ」と声を上げて、両頬を手で包む。


 いつの間にか。

 のれんを手で分けて、扇丸おうぎまるが顔を覗かせていた。


「びっくりした。いらっしゃいませ」

 美月は苦笑いし、商品棚の裏から、頭を下げる。


「相変わらず、変わったおなごだ」 

 扇丸は豪快に笑いながら店に入る。その後ろからは、てっきりお供の早瀬はやせがついてきているのかと思ったが、影のようなそれは、軍服を着ていた。


「あれ」

 つい、目を丸くして声を上げる。


 軍帽のつばを少し上げ、会釈をするのは、設楽したら伯爵のガーデンパーティで出会った軍人だ。



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