第35話 本邸
◇◇◇◇
布団の中で、
なんともしつこい眠りだった。
意識は浮上しようとしているのに、なかなか覚醒できない。寝起きはよい方なのに、泥のような眠気に絡めとられる。
それを振り切るように、寝返りを打つ。
途端に、ふわりとしたものが腕に触れた。
するり、とそれは旭の胸元に入り込む。
あたたかい。
そして、やわらかい。
ふと、
『ちゃんとした……。正式な夫婦になったら』
真っ赤な顔で自分に言う美月の顔が浮かぶ。
じゃあ、毎日抱きしめましょう。
そう提案してから、旭は彼女を毎朝、腕に抱く。
もう、三日も、十日もとうに過ぎているのに、彼女は毎回、腕の中で身を固くする。そのあと、最近はちょっとだけ、自分にもたれるようになった。
なんとなく。
なつかない野良猫がようやく距離を縮めて来た感じだ。
嬉しくなって、ぎゅ、と力をこめると、驚いたように顔を上げる。その顔がいつも愛しくて、つい唇を重ねてしまう。
毎回同じ流れなのに。
彼女は、いつも初めてのように驚く。
ぎこちなくて、恥ずかしそうで、困ったようなその態度や言動や表情がまた、可愛らしくて、旭は、つい深追いする。
彼女の身体に触れたり、首筋に唇を這わせたり。
そのたびに、真っ赤な顔で怒るのだけど。
そんな彼女を愛くるしく思う自分は、どこかいびつな性癖の持ち主なのだろうか、と、ときどき、不安になる。
あのときも。
あのときの、あの晩も、このまま、腕の中の彼女を離したくなくて。
おまけに、ちょっとだけ彼女を困らせたくて。
『このまま、一緒の部屋で過ごしませんか』
耳元で囁くと、美月は顔を真っ赤にして、慌てて自分の腕から逃げ出した。
『ちゃんとした……。正式な夫婦になったら』
そう言って、自室に逃げ込んでしまった。
おまけに、それ以降、夜は接近禁止命令が出てしまった。
深追いがすぎたなぁ、と反省するとともに、ひどく寂しい思いをした。
だけど。
当初は、契約結婚を持ち掛け、愛人を何人作っても構わない、と言っていた彼女が、自分と正式な夫婦になろうと考えてくれている。
そう考えただけで、ふつふつと嬉しさが胸から湧き上がる。
もぞり、とやわらかくて、温かなものが動いた。
腕の中に、彼女がいる気がする。
夢でもいい、と、ぎゅ、と抱きしめた。
「旭様」
聞こえて来た声に、旭は仰天して跳ね起きた。
違う。
これは。
美月じゃない。
旭は荒い息のまま、布団に後ろ手をついて上半身をのけぞらせる。
むくり、と。
掛け布団が盛り上がる。
そこから現れたのは。
長い髪を結いもせず垂らし、襦袢姿のしどけない
「な……っ」
旭は愕然とする。
慌てて周囲を見回した。
見覚えがない部屋だ。
整えられ、掃除が行き届き、ひとそろえ、家具や机もある。一瞬、どこかの宿泊所かと思ったが、それにしては造りが変だ。閉められた障子の向こうから陽の光は透けて見えるが、客が庭を眺められるようにはできていない。
覚えているのは、砂糖問屋で
考え事をしながら歩いていたら、数人の男たちに路地裏に引き込まれ、布を顔に押し付けられた。妙に湿気て、甘い香りのする布だ。強引に口や鼻をふさがれ、窒息する、と思い、喘ぐ肺に、思い切りその甘ったるい香りを吸い込んだ。
そこから。
記憶がない。
改めて自分の姿を見る。
美月が、『祖父のを仕立て直した』という着物ではなかった。
寝間着だが、生地が比べ物にならないぐらい良い。
「ねえ、旭様。まだ時間は早いですわ」
彩女が四つ這いで近づいて来る。
白魚のような指で、長い髪を耳にかけるしぐさをすると、緩くまとっていた肌襦袢から豊かな胸の谷間が見えて、旭は壁まで飛びすさった。
急に動いたからか。
それとも、彩女の存在自体にか。
胃からせり上がる吐き気と必至で抗いながら、旭は、襖に取り付いた。
「ここは、どこだ。なぜ、彩女が……」
「なぜって」
彩女は嫣然と笑うと、ゆっくりと立ち上がる。
気だるそうな仕草が、真夏に立ち上る陽炎のように見せた。
「あなたが、名実ともに
旭は愕然とその言葉を聞いた。
やはり。
やはり、異母兄の調子が悪いのか。あるいは、危篤状況に陥っているのか。
「ねえ、旭様。わたくし、嘘をついていたんです」
しゅる、と衣が擦れる音がする。
彩女が、襦袢に形ばかり結んだ紐を解いていた。
「おじ様や、お父様に、『旭様と契りを交わした』と。あの時は、そう言うしかなかったのです」
彩女は、ぼってりとした唇を尖らせ、上目遣いに旭を見る。
「本当は、旭様とは手も握っていませんでしたわね。わたくし、今になってわかりましてよ。旭様は、わたくしのことを、とっても大切にしてくださったんですわ。
邪気のない笑みに、旭はぞっとした。
「真実の愛がなんなのか、わたくし、ようやく気付きましたの。ねえ、旭様」
腰ひもが解かれ、布団に落ちる。まるで蛇の抜け殻だ。
「恋人同士に戻りましょう。わたくしを、愛してください」
合わせに両手をかけ、しゅる、と、襦袢を脱ぎ捨てる前に。
旭は襖を開いて、廊下に飛び出した。
ここがどこなのか、皆目見当がつかないが、彩女がいる、ということは、出入り口はあるはずだ。閉じ込められているわけではない。
旭はただ、長い廊下と、いくつもの襖の前を駆ける。
唐突に、庭に出た。
いや、廊下から回廊に出た、と言うべきか。
目の前にはまた別棟が見える。
(……この庭……)
池の造作と、植栽されている木々に見覚えがあった。
(本邸……?)
父と、義母と。異母兄の芳典が住んでいる、伽賀の本邸ではないのか。
戸惑いながらも、回廊を走り抜け、格子戸を引いて、中に入る。
途端に、足を止めた。
青年が立っていたからだ。
「……高岡さん……」
目の前にいる青年に見覚えがあった。確か、父の秘書だ。
偶然居合わせた、と言うわけではなさそうだ。旭を見ても驚いてはいない。眼鏡を擦り上げ、「ああ」と、意味のない発声をした。
「もうそろそろ、目が覚めたのでは、ないか、と。ちょうど伺おうと思っていたのです」
「高岡さん、ここは……」
旭は戸惑いながら、周囲を見回す。
格天井の、長く伸びた廊下。
猫足の円卓には彩色豊かな壺が飾られ、汚れなど見当たらない白い壁と、切り取られたような窓から差し込む庭の陽光。
間違いない。本邸だ。
母から引き離され、六歳になった旭がこの邸宅で、一番に覚えたこと。
それは、伽賀の人間以外が呼び出す以外は、本邸には入ってはならない、ということ。
では、自分は伽賀の人間ではないのだ、と、どうしようもない疎外感を覚えた。
「基本、自由になさってもらって結構ですが、奥様とぼっちゃんの棟は控えてください」
まあ、お判りでしょう、とばかりに肩を竦める高岡に、旭は詰め寄る。
「わ、わたしは、もう勘当されました。そもそも、伽賀の人間ではないのです。ここにいる価値など……」
「旭さんは、勘当などされていませんよ」
高岡が笑顔で答えるから、絶句する。
「いや……、だって、高岡さんが弁護士を連れて……。わたしは……、養子ではなかった」
声が震えた。だが、高岡は微動だにしない。
「なにかの間違いでしょう。旭さんは、伽賀家の次男で、今度の
静かな言葉なのに。
旭の喉は、どんどん締め付けられ、呼吸さえ苦しくなる。
「あ、
必死で絞り出した声は、だが、高岡の呆れ越えに消えた。
「なんですか、その格好は。彩女さま。お父様がご覧になられたら、なんとおっしゃるか」
弾かれたように振り返ると、そこには襦袢の上から振袖を羽織っただけの彩女がいる。胸がはだけ、旭は咄嗟に顔を背けた。
「高岡。旭様としばらく過ごすから、お父様にもそう伝えておいて」
嫣然と笑い、旭の手を握ろうとするから、振り払って、壁に張り付く。すぐ側の高岡が、小さな声で「あばずれ」と吐き捨てた。
「旭様はこのあと、いろいろとお忙しいのです。誰が手引きして本邸に入り込んだのか知りませんが、早くお引き取りを」
「わたくしは、旭様の婚約者よ」
ぷう、と頬を膨らませて見せたが、高岡は冷徹に言い返す。
「いいえ。あなたは、芳典様のご婚約者です。……ああ」
高岡が独り言ちた。
「芳典様の見舞いだ、と言って入り込んだな」
見舞い。
旭は、義母と異母兄がいるであろう廊下の先を見た。
主賓室も併せ持った、一番豪華絢爛な棟。
(やはり、体調がお悪いのか……)
最後に異母兄を見たのは、彩女の件で父親に勘当を言い渡された席でだった。
父は同じだが、旭と容姿は全く似ていない。
線の細い体躯。一重の瞳。神経質なところは、父に似ていたかもしれない。
芳典は、もともと非嫡出子の旭を、『気持ち悪い』と言ってはばからなかったし、彩女にいいように弄ばれた旭を、汚物を見るような眼で見ていた。
伽賀の離れで生活していた時は、異母兄のことを憎く思うこともあったし、義母のことも怖かった。
だが。
家を去り、美月と出会い、睡蓮こそが我が家だ、と腰を据えた今。
異母兄が哀れに思えた。
父に操られているのは、彼だ。
一番の被害者だ、と、どこか胸が痛くなる。
「さあ、お早く。帯はどこなのです。まずは、胸をしまいなさい」
高岡が、言葉だけは丁寧に。だが、実際は、獣でも追い払うような表情で言い放つと、ようやく彩女はあきらめがついたらしい。
「じゃあ、またお会いしましょう、旭様」
にっこりと笑い、また、来た道を戻り始める。
「今戻ったら、またあの女に襲われるかもしれませんから、しばらく庭でも眺めておられたらどうですか、旭さん」
高岡が静かに声をかけてくる。
旭が、なんと答えたらいいからわからずに、まごついている間に、高岡は手を打って使用人を呼んだ。
「庭の東屋に、軽食の準備を。その後、旭様はお着替えになる。支度をしておくように」
命じられた使用人は、無言で首を垂れると、きびきびと旭を伴って動き出す。
旭は。
ただただ、この成り行きに混乱していた。
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