第18話 信田さんって……

 目を覚ますと、狐が側にいた。


「あれ」

 目を擦り、上半身を起こす。


 周囲を見まわしたが、あさひの姿はない。

 というか。

 障子から漏れ入る光が随分と濃い。


「え……。今、何時!?」

 行燈あんどんがなくても視界がいい。空気自体も澄んでいて、陽が上っている気配がある。


「何時やろ。昼前かなあ」

 胡座あぐらをかいて、懐手ふくろでにした狐が、こてんと首を横に傾げるから慌てた。


「嘘! 店は!?」

 咄嗟に右手を布団について立ち上がろうとして。


 小さく呻いた。

 反射的に手を見る。


 鳥肌が立っているわけでもなく、外見上なにか変化があるわけではないが、一瞬、氷に触れたような冷感が背筋にまで走った。


「まだちょっと、あれやな」

 美月の様子を見た狐が、手を伸ばす。


「まあ、でも昨日の晩より断然ましや。手、貸してん」


 言われるままに右手を見せる。

 狐は手首を掴み、目を細めて凝視する。美月には見えないなにかを視界に捉えているのかもしれない。


「だいぶ、身体から抜けてるから、もう今日中には楽になるわ」

「旭さんにうつった、とかないよね」

 なんとなく気になる。


「旭に? うつるかい」

 狐はあきれた。


「あいつ、持って生まれたもんがええからな。たいていのもんは、消してまうわ。だから、側におったってくれ、って昨日頼んだんやし」

 言ってから、ふん、と鼻から息を抜く。


睡蓮すいれんのやつらは、みんなええ奴なんやけどなぁ。他人の悪意をわりと引っ張る、っていうか……。影響される体質でなあ。ほんで、身体壊して寝ついてまう」


 美月は狐に捕まれたままの右手を見る。

 今は、ほんわりとした温もりが狐から流れて来るが、昨晩は違った。


 父も、母も早逝そうせいだった。

 祖母もだ。

 祖父ぐらいだろう、六十代まで生きたのは。


 その理由が、狐の言う体質のせいだとしたら、美月にもそれが受け継がれている可能性はある。


「代々、早死にが多いから、僕が勧請かんじょうされたんやけど。……そんなもん、商売屋なんて悪意にまとわれてなんぼやん。どうにもできんわ」


 狐はようやく美月から手を離し、肩を竦めた。


「嫁や入り婿が、旭みたいに、はじく体質のやつやったら、血が混じって変わってくるかもしれんかったけど……。類は友を呼ぶ、っちゅうからなぁ。みんな、影響されて身体壊して、死んでしもたわ」


 狐は耳輪のある耳たぶを引っ張って、ぶっきらぼうに言う。

 だが、目の奥にあるのは確実に寂しさであり、悲しさだ。


 彼とて、この家に招かれ、大切にされてきたのだから、それなりに応じようとしたのだろう。


「悪意にまとわりつかれるんは仕方ないけど、影響はされるな。少しでも身体が変やな、おもったら、僕に相談するか、旭にくっついとれ」


「くっつくって……」


 あきれて呟いたのだが。

 昨晩のことを思い出し、顔が熱くなる。

 慌てて狐に気づかれないよう、両頬を掌で包んだ。


「昨日なんかあった?」


 だが、狐が人の悪い笑みを浮かべるから、丸めた拳で狐の膝を殴る。


「いたっ」

「なんにもないっ」


「いやまあ……。情をかわしたんなら、もっと治りも早いんやろうけど、その程度やから、その程度のことなんやろうな、とは」

「うるさいなぁ、もうっ!」


「いたっ! ちょっと、僕、神狐しんこなんやんでっ!? もっと大事にしてっ」

 ぎゃあぎゃあと子どもじみた言い合いをしていると、するり、と障子が開いた。


「美月さん、起きました?」


 顔をのぞかせたのは旭だ。

 手には小さな土鍋と湯呑を乗せた盆を持っている。


 店の合間に出て来たのか、着物に前掛けをしており、頭にはさっきまで手拭いをかぶっていたらしい跡が残っていた。


「あ……、おはようございます」

 慌てて布団の上で正座をし、旭に頭を下げる。


「よかった。昨日の晩より、だいぶん調子がよさそうですね」

 旭がほっとしたように顔をほころばせる。


「店番、してくるわ。美月のところにおったって」

 狐は言うなり、しゅるりと立ち上がり、部屋から出て行く。


「よろしくお願いします」

 代わりに旭が入り、布団の側に盆を置いた。


「熱、なさそうですか?」


 品良く座り、美月の額に掌を当てる。

 あたたかく、大きなその手に触れられただけで、身体の芯に残っていた寒気がまた、浄化される気がした。


 目を閉じてその心地よさに浸っていたら、「失礼」と小さく声がかかる。


 なんだろうと、瞼を開くと、旭が美月の着物の前合わせを整えてくれているところだった。


「昨日はお騒がせしました」

 されるがままになりながら、美月は詫びる。


「とんでもない。元気になってよかったです」

 旭は穏やかに微笑むと、畳に置いた盆を美月の方に少し押した。


「昨日、お昼ごろからなにも召し上がってないから……。おかゆにしてみたんです。食べられそうですか?」


 尋ねられ、盆を見る。

 小ぶりの土鍋からは、淡い湯気があがり、真っ白な粥の中に、お日様のかけらのような黄色が浮かんでいる。卵が入っているらしい。


「ありがとうございます。お腹、すきました」

 つい、笑みこぼれると、旭も嬉しそうに笑った。


「いただきます」


 言ってから右手を伸ばすのだが。

 さっきみたいな冷気は消えたが、まだ痺れたような感じは残ったままだ。盆に添えられた木匙を取ろうと思うのに、小刻みに震えて心もとない。


「ああ、じゃあ」


 なにが、ああ、なのか、と目をまたたかせた美月の前で、旭は盆ごと持ち上げ、正座した自分の膝の上に置く。


 きょとんと眼を丸くする美月に対し、木匙を持って、土鍋から粥を掬い取った。


「はい。あーん」

 にっこり微笑んで差し出すから、仰天する。


「いえいえいえいえ!! 大丈夫ですからっ!」


 勢いよく左右に首を振り過ぎたらしい。ちょっと眩暈がした隙に、更に詰め寄られた。


「遠慮なさらず。ほら」


 綺麗な笑みを浮かべられ、ひい、と美月は背をのけぞらせる。


 だが。

 満面の笑みを浮かべつつも、旭は拒否をゆるさない。


「ほら、あーん」


 声音も表情も優しいのに、旭には強引さがあった。うう、と美月は呻き、顔を真っ赤にして覚悟を決める。


 おずおずと口を開く。

 どうしようもなく恥ずかしい。


 絶妙のタイミングで匙を口に入れられ、美月はぱくり、と口を閉じる。するり、とすぐに匙は抜き取られた。


 ほわり、と。

 口腔内には、穏やかな温かさと、少しの塩味が広がる。触れればとろけるほどよく煮られた米粒が、甘さと柔らかさだけ残して、ゆっくりと胃に落ちていった。


「おいしい……」

 ごっくん、と飲み込み、思わず声が漏れる。


「よかった。母のお気に入りでしたが……。美月さんの口に合うかどうか、不安でした」


 旭は、ほっとしたように口端に笑みをにじませると、またひと匙、粥を掬い取る。今度は、大きく湯気が上がったので、旭が口を寄せ、ふう、と呼気を吹きかけた。


「はい、どうぞ」

 差し出され、やっぱり恥ずかしさと戦いながら、ぱくり、と口に匙を含む。


(おいしいなぁ……)


 咀嚼するほどでもないので、粥は少しの動作で、甘さと少しの塩味を残し、するりと喉を流れ落ちた。


「あの、ちょっとお伺いしたいんですが」

 そうやって何度か木匙を美月の口に運んだ後、旭は切り出した。


「はい?」

信田しのださんって、どういう方なんですか?」

 おもわず目を見開いてしまう。


「ど、どういう、って……」


 まさか、居間に飾ってある稲荷社の神狐です、とは言えない。


「近所の……、書生さんです」


「このあたりの書生ということは、帝大生なんですよね」

 確認され、曖昧に頷く。そういうことにしておく。設定を覚えておかないと、あとでボロがでそうだ。


「その……、英語にも堪能ですし、博識ですし……。今朝などは、開店準備を手伝ってくださったのですが、菓子に対する造詣も深く……」


「英語、堪能ですか?」

 おもわず眉根を寄せた。旭は、きょとんとした顔で頷く。


「だって、美月さんがいつも話している会話に、普通についてくるじゃないですか」

 返され、今度は美月が目を丸くする。


「え? 私?」

「ポイントカードとか、ディスプレイとか、レシピとか……」


 今更ながらに、愕然とした。


 そうだ。

 前世の知識が戻ったのでなんとなく使っていたが、普通の人間なら「は?」と言われておしまいだったのだ。


(そうか……。狐は、異世界のこととか知ってるから、会話が通じるだけで……)


 やばい、と血の気が引く。

 そういえば、出会った当初、旭が、「学校に行っていないんですか」と尋ねたことがあった。


 あれは、「英語を学んだ」と思っていたからだ。


(ど、どうしよう……)

 つっこまれたら、なんて言い逃れしようか、と焦っていたのだが。


「あの……」

 おずおずと、旭が声をかける。


「は、ひ」

 おもわず声が裏返った。いったい、何を聞こうとしているのだ、この青年は。


「信田さんが、美月さんの想い人とか、ではないですか?」

 目を伏せ、木匙で、もうほとんど残りの無い粥を混ぜながら、旭が尋ねた。


「……………ごめんなさい、ちょっと理解がついていかないんですが………」


 頭痛がしてきた。

 美月はこめかみを左手でもみほぐしながら、呻く。

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