第19話 設楽伯爵
「いや、だって、ほら!
言いながら、
「わたしとは、契約結婚で、とおっしゃって……。その、もちろんわたしも、当初はそれでいい、と思ったのは、わたし自身、女性はこりごりだと思いましたし……。それに、実はあなたに想い人がいらっしゃって、その人と結ばれるには、都合が悪いので、どうしても、わたしと結婚する必要が……」
「ちょっと待って、旭さん」
掌を広げて、怒涛のごとくしゃべる旭をとどめる。
「すんごい、誤解してます。あれは、ただたの
きっぱりと言い切ると、旭は、へなへなと座り込んだ。
「あ、……、そう、ですか」
言うなり、今度はどんどん顔を赤くし始めた。
「す、すいません……、いきなり変なことを……。その……。なんか、あの……」
首まで赤く染めた旭は、うなだれる。
「わたし、こんなにやきもち焼きではなかったはずなんですが……」
消え入りそうな声に。
今度は、美月まで顔が赤くなる。
「あの。契約結婚だとはわかっていますし、なにより、こんなわたしが、美月さんに申し出るのも、本来おこがましいと思うんですが」
旭は木匙を握りしめ、意を決して顔を上げる。
「契約ではない、結婚を、わたしとしては望んでいます」
きっぱりと言い切られ、美月は唖然と口を開く。
「……え。誰と?」
「あなたと」
「なんで」
「なんで、とは?」
互いに困惑したまま、しばらく見つめあっていたが、焦れたように旭が口を開いた。
「その……、美月さん、初めてお会いした時、言ってくれたじゃないですか」
「なにを。というか、どれを」
「あなたはきっと、いいひと、って」
目を見て言われ、美月は、「ああ」と頷く。
言った。
確かに自分は、「おじいちゃんの菓子を好きな人に悪い人はいない」と言った。
「素性もなにもわからないのに……。そのままのわたしと、わたしの菓子を見てそう言ってくれた時、なんだか、すごく感動して……」
思い返せば、旭は涙ぐんでいた気がする。
「その後、あなたが、いろんな知恵を出して店を盛り立てようとする姿を見ていると、どんどん心惹かれて……」
言っている本人は、大いに照れているが、まったく無自覚だった美月にとっては、茫然とするしかない。え、そうなの、と。
「いや、でも。だから、どうしてくれ、と言っているわけではないのです」
旭は、急いでそう付け足した。
「ただ……、少しは、わたしのことを、その……。男として意識していただけませんか」
言われて、美月は戸惑う。
「い、意識してますよ。旭さんは、素敵な男性で、和菓子つくりの上手な人です。おじいちゃんの弟子です」
だが、旭は眉を下げ、不満そうに唇を尖らせた。
「意識していたら、昨日の晩みたいなことにはならないと思いますよ。おまけに……、さっき、わたしが直すまで、結構前合わせが乱れてて……」
言いながら、器用そうな指で美月の鎖骨のあたりを指さす。今更ながら美月は着物のあわせを直し、ついでにきっちりと座りなおした。
「いや、それは……。旭さんを信頼してるからじゃないですか」
旭が自分に対してなにかするとは思えない。真面目な顔で告げたが、旭は不満顔のままだ。
「信頼と言うか……、男として意識されてないんだと思います。無害に思われている、というか」
「そう……、かな」
首を傾げて考えてみるが、旭のことは「性別男」と認識している。
まじまじと見つめていると、視線の先で、旭が珍しく意地悪気に笑った。
「まあ、いいです。そのうち、いやってほど、意識させてやりますから」
どきり、と心臓が拍を打つ。
美月はどぎまぎしながら、なんとなく、もぞもぞと布団の上を移動し、彼から距離を置いた。
そんな美月の様子に気づき、くすり、と旭が笑った時だ。
「旭―。美月―」
店舗の方から声が聞こえて来た。狐だ。
ふたりで顔を見合わせ、同時に「はあい」と返事をする。
「お客さんなんやけど。ごめーん」
狐が対応できない、とはどんな客なのだろう。
旭が、膝の上から畳に盆を移動させ、素早く立ち上がる。しゅるり、と裾を捌いて障子に向かった。美月も、衣文かけから羽織をとって、手早く肩にかける。昨日から同じ着物を着ているが、そうしわにもなっていない。羽織をまとえば、多少誤魔化せるだろう。
ついでに、右手を、ぐー、ぱー、してみる。
(……うん、大丈夫そう)
まだぴりぴりしているが、動作に支障はない。
廊下に出ると、旭が心配そうな顔で待っていた。
「大丈夫です」
にっこり笑って、並んで廊下を渡る。
「お待たせしました」
「どうも」
商品棚を挟んで、ひとりの男性が目礼をする。見知らぬ男だ。というか、身なりからして、町民ではないだろう。カイザーひげをたくわえた、武人のような男だ。
「あなたが、
五十代ぐらいだろうか。旭にそう尋ねる。
声が低い。じろり、と走らせる視線は、値踏みをする、というより、剣道で立ち会った際に、相手に向ける視線のようだ。
「いえ、わたしは菓子職人です。睡蓮の主人は、こちらの美月さんです」
旭の返答に驚いたのは美月だけではなかった。ぎょっとしたように男も美月を見る。
「いや、旭さん……」
袂を握って小声で声をかけるが、旭はにっこり笑う。
「相続権はどうあれ、美月さんは
言われてみればそうなのかもしれないが、と、戸惑いながらも、美月は男性に対して礼をした。
「睡蓮を祖父から受け継ぎました、孫の美月と申します。こちらは、当店の菓子職人です。今日はどういった御用向きで」
「なるほど」
予想に反し、男性はなぜだか愉快そうに、ひげをしごいた。
「面白い店だ。あの方が気に入るのがわかる気がする」
独り言ちてから、ポケットに入れていた封筒を商品棚の天板に置く。
「失礼します」
断りを入れてから、美月は受け取った。
上質な紙だ。こちらの世界に来てから、初めて真っ白の封筒を見た気がする。
「なんなん?」
興味津々の狐が、ひょいと顔を突っ込んできた。反対側からは、旭も顔を寄せて来る。
そんな中、美月は封筒から一枚のカードを取り出した。
「演奏会の、開催……、ですか」
厚紙に印刷されているのは、二週間後に
ただ、当然招待状、というわけではない。
そこに記されているのは、搬入時間、参加予定人数、予算などだった。
「毎年この時期に、客を案内し、愚妻が琴の発表を行うのだ。その後、庭で軽食や喫茶を行ってもらうのだが……」
淡々と語っているが、愚妻、という限りは、この男性が主催者である設楽伯爵なのだろう。まさか、本人自ら、足を運んでこようとは、と、美月と旭は背筋を伸ばした。
「とある方が、貴店の菓子を所望されている。主催者側としては、なんとしても用意したいところだ」
「軽食や喫茶をご準備、とおっしゃっておいでですが……。
ちらりと旭に視線を走らせながら口を開く。彼も無言で頷いた、ということは、同じことを考えていたのかもしれない。
「野点は行うが、そちらの茶菓子は、茶席の先生方の希望により、
「芍薬庵」
おもわず目を瞠った。やはり、ここから離れた大口客とはつながっているらしい。
「想定しているのは、先ほど申した、野点。それから、談笑しながらつまめるような、サンドウィッチやマフィン、スコーンなど。それに合わせて、いくつか和菓子も用意したい」
「ガーデンパーティのような感じでしょうか」
美月が言うと、少し驚いたように片目だけ大きく開いて見せ、また、ひげをしごく。
「うむ。そうだ。西洋で行うような、があでんぱあてぇ のようにしたいのだ。だが、いかんせん、西洋菓子は受け付けぬ、という参加者もおる。そういった方を対象に、和菓子も置いておきたいと思ってな」
「では、焼き菓子や、大福のようなものがよろしいですか?」
旭が提案する。片手でつまめ、ぱくり、と数口で食べきれるものがいいだろう。美月も同意見だった。
「いや、それが……。これも、さる方のご希望により、上生菓子が良い、と」
「「上生菓子、ですか」」
おもわず美月と旭の声が重なる。
「でも、茶席やないんやろう?」
狐が腕を組み、首を傾げる。
「うむ。まあ……。紅茶やワイン、果実を絞った……、なんというのだ。じゅうすか。あのようなものは用意しておるし、希望があれば、抹茶や緑茶を給仕に用意させるようにはするが……」
美月は旭を見上げ、それから顔をしかめる。
上生菓子は、抹茶を想定していることが多い。
(サンドウィッチやマフィンの中に並ぶわけでしょう?)
果たして、誰か手に取るだろうか。
一番危惧するのは、「大量に残った場合」のことだ。
伯爵のことだ。一度納品すれば、余ろうが廃棄になろうが、全額支払いはしてくれるだろう。
だが。
その、誰も手を付けなかった大量の菓子を見て、参加者はどう思うだろう。
やはり、あそこの菓子店は落ちた。
そう思うのではないだろうか。
「どうだ?」
設楽伯爵に促され、美月はためらうが。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
旭がきっちりと腰を曲げ、頭を下げた。
「ですが、開催形式の件で、いろいろ掘り下げてお聞きしたいこともあるかと思いますので……。そう言った時、どなた宛てにご相談させていただければよろしいでしょうか?」
「では、うちの執事に尋ねるがよい。名刺に名前を書いておこう」
設楽伯爵は名刺入れを取り出し、狐が差し出した万年筆で、すらすらと文字を書き連ねた。
「西洋式にも慣れておるようだ。よろしく頼むぞ」
旭に手渡しながら、設楽伯爵は美月にそう告げ、店を出て行った。
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