第23話 菓子の楽しみ

美月みつきさん」

「は、はい」


「さっき、痛快でした」

 くっ、と喉元で笑い声を殺してあさひが言うから、美月も笑い出した。


「私、言っちゃった、と焦ったんですが……。なんとかなりましたね」


 美月と並んで、テーブルの脇に立つ旭は、しばらく笑った後、少し腰を屈めて美月を見る。


「そんな、気の強いところが大好きです」 


 やめて。

 美月は心の中で悲鳴を上げる。


 その格好で、その顔で、そんな台詞を言うのはやめてっ。


 火を噴きそうなほど熱を帯びた頬を両手で包み、美月は顔を逸らす。


 その視線の先に。

 ちらほらと参加者が見える。


 西洋の服装を真似た夫婦もいれば、着物を着た夫婦もいる。まだ、年若い娘を連れた夫婦もいた。


 そのいずれもが、男性が先に歩き、女性が後ろを歩く。


 美月たちのように並んで立っている者もいない。


 夫と息子が前を歩き、その後ろをついて歩く妻。

 腕を組んで歩く夫婦でさえ、女性は半歩後ろだ。


 男性が外で働いてカネを稼ぎ、女性は家の中で家事労働と、内職をしてわずかなカネを稼ぐ。


 その、自分が稼いだ金額で、「夫と妻、どちらが優位か」が示される。


 純粋に仕事だけをしている男性と。

 家事育児をすべて担いながら、空いたわずかな時間でやりくりする内職をする女性。


 夫と妻の立場は、決してフェアではない。


 だが。

 家庭内のパワーバランスは、純粋に稼いだ金額で決まる。


(そういう、時代なんだなぁ)


 旭が珍しいのだ、と今更ながらに気づいた。

 旭は、社会的な場において、あまり美月を女性扱いしない。


 ひとりの、働き手として見てくれる。


「まあ、やっぱり、睡蓮すいれんさんがいらっしゃるわ」

 華やいだ声に、美月は目をまたたかせた。


 気づけば、振袖を着た年頃の娘がパラソルの中に入って来る。よく見て見ると、常連客だ。確か、石崎いしざき男爵のご令嬢。


「いらっしゃいませ、桜子さくらこさま」

 美月が頭を下げると、愛想よく応じ、すぐに旭に笑顔を向ける。


「旭さん、ごきげんよう」

「いらっしゃいませ、桜子さま」


 旭が営業用の笑顔を浮かべた。


「お父様、お母様。こちらのお菓子ですわ、いつも桜が買っておりますのは」

 長い袖を翻し、桜子は振り返る。


「おお、そうかね」


 羽織袴の父親は鷹揚に頷いてついて来るが、その後ろにいた母親は、少々困ったような顔をしていた。


(うちの噂を知っているのかな……)

 美月はそう思うものの、顔には出さず、父親にも頭を下げる。


「これはまた、珍しいな」

 父親である石崎男爵が、テーブルに並ぶカクテル・グラスを見て、目を見開く。


「シャンパンか、砂糖水を注いでお出ししますが、どちらになさいますか」

 美月が声をかけると、桜子がはしゃいだ。


「お父様。わたくし、しゃんぱんがよろしいわ! 今日ぐらい、いいでしょう?」

「仕方ないなあぁ。今日だけだぞ」


 渋々、という風を装うが、娘にねだられ、嬉しいらしい。石崎は美月に向かって頷いて見せる。


「これ。シャンパンをふたつ」


「かしこまりました。奥様は、いかがいたしましょう」


 美月が笑顔で尋ねると、驚いたように母親は肩を震わせた。自分にふられると思わなかったらしい。


「あの……、いえ、わたしは……」

 もごもごと言うと、石崎が舌打ちをする。


「どっちなのだ、はっきりせい」

 怒鳴りつける石崎を、美月は完全に無視した。


「迷いますよね.、わかります。両方、というのでも結構ですよ。お代はすでに、伯爵さまからいただいております」


 いたずらっぽい笑みを浮かべて提案すると、母親は心底驚いたようだ。


「まあ! お母様だけ、ふたつなんてずるい! 桜も!」

 桜子が無邪気に会話に入って来る。


「で、では。私は砂糖水の方を。桜子、半分こしましょう。ふたつなんて、いけませんわ」

 母親がそう申し出る。桜子は、満面の笑顔を浮かべた。


「お母様、うれしい! ありがとう」


 石崎はなんだか憮然としているが、美月は完全に無視をして、カクテル・グラスをみっつ、銀盆の上に乗せた。


 シルバーのスプーンをそれに添えていると、ぽん、と軽やかな音がする。視線を向けると、旭が白布を握った手で、シャンパンのコルクを抜いたところだった。


 ボトルの底部を持ち、重さを感じさせない優雅な仕草で、美月が持つ銀盆の上に乗ったカクテル・グラスに、白金色の液体を注ぐ。微粒子の炭酸が弾ける音に、桜子だけではなく、母親も笑顔になった。


「こちらは、砂糖水でしたね」


 間違えないように、旭がミントの葉を添える。

 シャンパンをクーラーに戻し、今度は、砂糖水のボトルを持ち上げた。白布で水気を流麗な動きで拭い、カクテル・グラスに注ぐ。


「どうぞ。寒天を崩しながらお召し上がりください」


 笑顔と一緒に差し出すと、まずは石崎が手に取る。

 次に桜子が嬉しそうに手にして、パラソルから外に駆け出た。


「桜子さん?」

 慌てた母親が、自分のグラスを持って振り返る。


「ほら、見て、お母様! お日様の下で見ると、すごく綺麗よ!」


 桜子がグラスを掲げ、下からのぞくようにして菓子を見上げている。


 きらきらと。

 様々な色合いの寒天が揺れながら色を散らしていた。


「本当ね。きれい」

 母親も笑顔で娘の側に歩み寄る。


「よい趣向であるな」

 石崎はひとくち、ぐい、とシャンパンを口に含み、その感触と味に満足気に頷いた。


「ありがとうございます」


 頭を下げる旭の前で、石崎は、匙を取り上げ、もり、と一口であじさいを食べてしまった。


「あ……」


 いや、もっと味わってよ。きれいよ、それ。

 喉から出そうな声を必死でこらえていると、石崎はわずかに目を見開いた。


「合うとは思うておらなんだが……、うまいぞ」

「それは、ようございました」


 旭はやわらかく対応しているが、美月はやっぱり不満だ。

 屋外では、まだ母娘がグラスを見て、笑いあっている。ああいう楽しみ方をしてほしい。


「楽しみ方は人それぞれです」

 旭に耳打ちされ、むう、と口を尖らせたのだが。


「あれが、笑っているのを久方ぶりに見た」


 ぼそり、と石崎が言う。

 目をまたたかせ、美月は彼を見た。


 石崎が見ているのは、娘となにか言い合い、くすくすと微笑む妻の姿だ。


「良い菓子だ」


 うむ、と大きく首肯した石崎は、またもや、がばりとシャンパンごと、寒天の欠片を飲み込むと、妻と子の元へと歩き出す。


「……確かに、楽しみ方は人それぞれですね」

 美月は背伸びをし、旭に囁いた。


 菓子を嬉しそうに食べている誰かを見て、喜ぶ。

 それも、菓子の楽しみのひとつなのかもしれない。


「失礼、わたしにもひとつ、いただけるだろうか」


 石崎と入れ違うように入ってきたのは、軍服姿の、すらりとした青年だ。

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