記憶

 残念ながら、まことに残念ながら、世界というものは残酷である。

 分かり切っている事実かもしれないが、念のためもう一度言おう。


 ――世界は、残酷である。


 この世に強さというものがあるのなら、いや、強さというものを測る指標があったなら、きっと世界はもう少しだけ平和だっただろう。


 強さが絶対的なものであったなら、無謀な挑戦者など生まれず、稀代の番狂わせなど起きるはずもなく、予定調和の絶対的な序列のみが世界に安寧をもたらしたことだろう。


「頑張れば」


 とか、


「秘めた才能が開花して」


 みたいな、夢見心地の絵空事を胸に抱く愚か者が生まれることなく済んだろう。

 彼らの心を真の意味で救済することが正であるならば、残酷なこの世界は不正である。


 残酷な世界は、人々に希望を抱かせて、絶望させることを良しとしている。


 可視化されない能力や強さによって、人々は見えない自分の可能性を追い求める。たとえその先に塵一つ才能がなかったとしても、追い求めた先にしか答えはない。

 ゆえに人々は惑うのだ、「己の可能性」というまやかしに。


 そのうえで、


 俺は、維新姜也という人間は残念ながら愚か者であった。

 維新鳳仙という類稀なる天才の弟として存在し、たとえ血がつながっていなかったのだとしても、「己の可能性」というものに幾ばくかの期待や夢があった。


 だがそれらは一向に羽を生やすことなくただ地を這いつくばってばかりだった。

 運動も学力も腕っぷしも、何一つ、俺にはなかった。


 そんなことに気付いたのは中学2年の時だった。


 遅すぎた。あまりにも自分を過信しすぎていた。今となってはそう思う。

 いつか、なんて一生来やしない。


 でも、俺は俺の可能性に縋るしかなかった。

 一歩進んでしまうことが怖かった。一歩進めば「己の可能性」の所在は明らかになるようで恐ろしかった。

 「可能性がある」か「可能性などない」か。

 天と地、天国と地獄、雲泥の差。


 あまりにも残酷で明確な事実。


「――――あ」


「姉貴が強いからって調子乗ってんじゃねえぞ」


 乱暴な言葉と同時に俺を殴打する男の声が蘇る。

 姉貴の悲鳴も聞こえる。


 ――俺は、


 ――俺は、姉ちゃんを――


「うるせえ寝てろよカス」


 男の言葉と共に、俺の視界は何度も暗転する。


 男の顔と、冷たい地面が交互に視界に映る。


 殴られ、這いつくばり、殴られ、這いつくばり。


「てめえがよえーからわりーんだろうがよお。強い強いお姉ちゃんがいねえと何もできねえくせして、正義感振りかざしてんじゃねえよ」


 痛い、痛い、痛い。


 苦しい、苦しい、苦しい。


 俺は、――俺は――


 何もできない。


 何も、何一つも。


 姉貴を守ることも、自分を侮辱するような言葉を否定することも、己の尊厳を守ることも。


 俺は、何もできやしない。


 奇跡など起きない、俺はただの凡人なのだと、あの日思い知ったのだ。


 絶望という影が俺にぴったりと染みついてしまうのが分かった。


 あの日以来、俺の心は――


 あふれ出る何かを無視することでしか、自我を保てなくなってしまっている。

 

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