ハル・シオンと白の道 -4
なにか羽織ってこればよかったと後悔しながら、夜明け前の薄青い空気の待合室に入る。暖炉の上に飾られている、タペストリーの前まで行く。青い空を映す雪山。ヤギに羊。花が咲いている。周りを飾るのは長様の家紋。濃い青で縁取りをし、金の糸の房飾りが規則的に並ぶ。
ヤナの遺作になったと、誰かに聞いた。きっちりとそろえられた織り目を撫でる。わたしに渡された、薄青のワンピースを思う。本当は、あの服が最後に作られたものだと、知っている。手紙に書かれていた。
『ハルへ。わたしの唯一の友達へ。たくさん哀しい思いをさせてごめんなさい。よかったらもらってね。あなたは空が似合うみたい。あなたたちの出発に、ギリギリ間に合ってよかった。』
長様への手紙とは違って、お作法を守っていなくて、言葉も自由に踊るようだった。薄桃色の可愛らしい便箋を思い出す。何度も何度も読んだので、描かれていた花びらの一枚一枚まで覚えてしまった。
『ハルならきっといろんな場所に行くから、こんな薄物でも着られると思うんだけど。きっと似合うと思うわ。いつもの真っ白の服も、あなたの凛とした顔がはっきりして、似合うんだけど、でもね、あなたは空を飛んでいるのが一番似合ってるから、この色がぴったりだと思ったの。』
『あなたと会えて本当によかったわ。あんまり泣かないでね。わたしのこと忘れてね。ごめんね。あなたと、ロジンさんがずっと仲良しでいられますように! ボタンは鳩の模様のものにしたわ。あなたに幸運が訪れますように。さようなら。もうまたねって言えなくてごめんね。さようなら』
膝下までゆるやかに広がるスカートに、可愛らしいシルエットの袖。袖口とスカートのすそには細かなレース。箱から一度だけ出して、また仕舞いこんでいる。
一生着られないんだろうなと思った。わたしにはお行儀のよすぎるデザインだとも思ったし、着ても泣いてしまうだけだろう。あんな薄い素材の服では旅なんてできないし。リボンがいくつもついているから、着替えに時間がかかってしまうし。ただずっと持ち歩いて行くしかない。
一生忘れはしないだろう。わたしの友達。花のような笑い方と、明るく弾ける笑い声。最後も、やっぱりわたしと手をつないで、またねと言っていた。タペストリーから指を離す。
「ごめんね」
わたしがもっと強かったら、きっと着ることができた。持って行くだけで、わたしの限界だった。踵を返す。少しはやいけど、やっぱり部屋に戻ってしまおう。廊下に続く扉の方を見る。背の高い、人影があった。ぴたっと自分の体が止まる。
深緑の上着を羽織ったシルエットが、こちらにゆっくり歩いてくる。なにを言うか迷って、短く息を吐いて、いつも通りを装うことにする。
「おはよう、チオラ。早いわね」
「そっちこそ」
チオラが待合室の椅子に座ったので、その隣に腰かける。三人くらいは並んで座れるソファなので、少し間を空ける。自分の毒は、理解しなくてはならない。チオラが珍しく足を組んで座っているので、少し笑った。かすかに首をかしげている気配がする。
「ううん。そういえば、チオラって、けっこう雑な振る舞いをするなあって、思い出しただけ」
はは、と短くチオラが笑う。
「まあ、あのリーダイの許嫁だからね」
「テトたち以外は、一番優しい兄やはチオラって言うのよ。怒ったら一番怖いじゃないの」
「じゃあ、ハルは一番優しいのは誰だと思うの」
「そりゃあ……」
チオラをちらっと見上げて、笑う。わかり切っていることを聞かないでほしかった。相手もまた短く笑った。朝日ものぼっていない早朝の待合室は、ぼんやりと青く沈んでいるように見えて、なんとなく気が楽だった。
どうしようか、この場になって迷うとは思っていなかった。リーダイではないのだから、言わないことにしよう。
それでいいのだ。この旅団で一番優しい姉やに、これ以上なにかを背負わせるのは。柱時計が、ぼん、と音を立てた。朝の五時。もうみんな起きだす頃合いだ。うんと背伸びをして、チオラが立ち上がる。
「戻ろうか。今朝は忙しいよ」
「うん」
チオラがわたしをじっと見下している。どうしたんだろう。深い青の瞳が、ぱちりぱちりと何度かまたたきをする。
「どうかした?」
「……僕にだったら、いくらでも伝言を頼んでいいよ」
自分の顔が、くしゃっと笑う。泣き出しそうだった。
「ううん。いいの」
「本当に?」
「うん。もう、いい」
自分も立ち上がって、チオラに笑う。ずっと昔は、おにいちゃんと呼んでいた。リーダイのことも、おねえちゃんと無邪気に呼んで、頼っていた。それはならないと叱られたのも、もはやただの懐かしいだけの思い出だ。
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