ハル・シオンと暗の道 ‐1
カバンに括りつけたホウキと地図の座りが少し悪い、と思いながら馬の腹を軽く蹴る。もぞもぞしていたら前を行くザレルト翁がちらりと振り向いた。
「どうした」
「ううん」
「あんまり動くな。馬が嫌がる」
はぁいと返事して、カバンの紐を引っ張る。休憩の時にもう一度確認した方がいい。
問題の山はもうすぐそこだった。険しい崖と、今にもがらがら崩れそうに引っかかった大きな岩たちが見える。洞窟があって雨風がしのげたとしても、うんと冷えてそうだった。
気もそぞろにしていたら、馬が大きく鼻を鳴らした。ザレルト翁が振り向いてため息をついた。
「休憩だ」
「ごめんなさい……」
「いいや。だから儂は、若い者にこんなことさせるのは反対なんだ」
馬から降りて手綱を引く。ぼーっと馬に乗るなんて怪我の元だ。下生えを蹴り飛ばすようにして歩く。水の冷えたにおいがする。もう少ししたら川にでるはすだ。倒木のあいだを抜けて、狭い川に出る。
水を飲む馬の首を軽く叩く。川の水で顔を洗う。ぱらぱら髪が落ちてきて、自分で作るシニヨンは今日も失敗作だ。ピンで無理やり留める。
「おめえは髪を結ぶのがなんでそんなに下手かね」
「どう考えたってロジンが悪いわ」
差し出された干し肉を受け取って口に放り込む。別にたいしておいしいわけではない。
「わたしが適当に髪をくくってるとロジンが許してくれないのよ。あれだけきれいに毎回結ってくれるんだもの、任せっきりにしたら、下手になったの」
灰色の服をかき合わせる。ザレルト翁が言った通り寒くなってきた。雨は降らなそうだけど、山の天気は読みにくいから楽観的な見かたはしないほうがいいだろう。山頂なら小雪がちらついているかもしれない。ザレルト翁の天気予報はよく当たるし、早めに山に入って一晩過ごす準備を終えないと、ちょっぴり怖いかもしれない。
「ザレルト翁、もう馬は帰す?」
「……そうだな」
はやいほうがいいだろう、と翁が言う。できるだけ静かに、穏やかに山に入りたいというザレルト翁の意見で、山に入る前に馬は元の場所に戻す計画になっている。
鞍の金具に、出発の直前にベースで切ったエニシダの枝をさす。枝と根が呼び合うのを利用した簡単な魔法だ。花が咲いていた場所まで行ける。
カバンのポケットから角砂糖を出してなめさせる。
「ここまでありがとう」
鼻面を頬にすり寄せられるのに答えながら、手綱をまとめて絡まないようにして、送り出す。無事に戻れるといいけど。
カバンを背負い直す。ホウキをカバンと背中の間に差し込んで、ウェストポーチのベルトでさらに固定する。歩くならこちらの方がいいだろう。エニシダの穂先が膝の裏にあたってちくちくする。
準備が出来たので、ザレルト翁にうなずく。熊のような体躯に、わたしの倍の荷物を抱えて、ひとつの山のようだ。
外衣のフードを深く被って、ザレルト翁が薮をはらいながら歩くのについていく。日が落ちる前に寝床を作らないといけないことを考えたら、探索する時間はないだろう。
寒さに鼻の奥が痺れた。朝の光が嘘のような曇天である。
*
夜の、山、は、冷たい。
本当に小さな焚き火しかしてないので、なおさらだった。
先に眠ったザレルト翁をちろちろ燃える火越しに眺める。もう齢は七十を超えている。いまだに旅を続けているのが嘘みたいな年齢だ。彼を慕う人は多いし、もうどこかに隠居してゆっくりしてくれといつも誰かに言われている。わたしたち特有の夕焼け空のような髪もほとんど色が抜けているし、手足に顔に問わず傷跡と火傷がいたるところに残っている。
彼の伴侶や、子供の話しは聞いたことがない。わたしたちは、必ず誰かと結婚するものなので、どこかにはいるはずだ。死に別れだろうか。大人たちが触れないことに、無邪気にくちばしを突っ込める年ではないし、わたしにそんな無邪気な年ごろはなかったような気がする。
口をつぐむことが一番大事だと言われ続けた幼少期だったと思う。弱音、弱み、苦手なこと、哀しいこと、を、言わないように、と、時には頬を張られながら厳しく躾けられた。
恵まれた生まれ育ちです、と口を開けばそう言うが。正しい知識ときちんとした食事を与えられて、自由はないとしても衣服に困ったことはない。必要なものは十分に与えられた人生に文句なんて言えない、と思う。
思うけれども。
なにを基準に恵まれていると判断すればいいのか、もしかしたら知らないのかもしれなかった。与えられた毛足の長い毛布をかき合わせる。つま先が冷え切っているので、ぎゅっと手で握りこんで無理やり足の指を動かす。夜になってうんと冷えてきた。
膝に顔をうずめる。毛布が湿った気がしたけど、あくまでも気のせいだ。こんなところで泣いたって仕方ない。レトの元に毛布が降ってくるわけではないのだ。
死んでなきゃいい。
どんな状態だって、わたしが生かしてみせる。
ハル・シオンを名乗って、この探索に出た、ということは、そういうことだ。見つかれば、息をしていたら、必ず生きて連れ帰る。計画を立ててみんなの行動の責任をとることを放り出した、わたしの責務だ。
怖い、と胸中で呟けば涙がぼろぼろこぼれた。一度涙がこぼれたら、深呼吸をして嗚咽を誤魔化した方がいい。涙はこぼれるままにした方が、まぶたは腫れない。
鼻水をすすって、顔を上げる。ぱちぱち燃え上がる金色の目が、至近距離でにゅっと笑った。
「こんバンは!」
「あ、」
「さガしもノしてルノ?」
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