ハル・シオンと炎の街 ‐9
*
ハルおねーちゃん、と子供特有の甘ったるい発音で目覚める。テントの出入口の隙間からこぼれてくる太陽の日が高いのが目に飛び込んできて、わたしは掛布をはね上げる。
「わ、おねーちゃん、」
「いま何時!?」
「朝ごはんが終わったばかりだよ。ハルおねーちゃんの分は残してあるから、だいじょうぶ」
ああもう、と怒鳴りつけそうになるのをこらえるので精一杯だった。血のつながっていない妹が少し怯えてこちらを見ているので、なんとか笑みに似たものを作る。
「起こしてくれてありがとう」
「う、うん……」
「もう行ってていいよ。お仕事があるでしょ?」
「わかった。あのね、ゆっくりでいいよって、リーダイとチオラは言ってたよ」
「わかった。ありがとう」
ひとりきりになった広いテントでため息をつく。木箱のベッドから降りて、敷布と掛布を整える。寝衣を脱ぎ捨てて、きちんとハンガーに掛けられた制服を手に取る。
高くて大きな襟のシャツ。その上からジャンパースカートを被って、ベルトにポーチを通す。ぶあつい毛糸の靴下を履いて、ベッドの下にしまい込まれた木靴を履く。鮮やかなイエローが目を焼くようだった。
顔を洗って、テントから出る。朝の風に垂らしたままの髪が揺れる。今日は、わたしの出立の日だった。遠方まで探索に行ったみんなを午前中に出迎えて、そのあとにわたしが出る。整えねばならない準備がたくさんある。
「ハルおねーちゃん、ご飯こっち!」
「はぁい!」
立ったまま、ぬるくなったお粥を流し込む。珍しく果物が入った、甘いものだった。水を飲み干す。食器を洗って、髪の毛を適当に結びながら、木立に向かって歩く。クマのような背中は、たいてい人気のないところにいる。
「ザレルト
「寝坊するおめえが悪い」
白髪混じりの太い眉が片方だけ跳ね上がる。巌のようにいかつい顔と、縦にも横にも大きなからだ。初対面のこどもにはだいたい泣かれる。
ただ、この旅団には、ザレルト翁の顔を見て泣き出すような子どもはひとりもいないだろう。傷跡だらけの手に抱き抱えられて、わたしたちは彼の大切な宝物として育てられた。
「ごめんなさい。うまく体調管理できてなくって、わたし」
「そんなことは知ってる。朝飯は食ったか」
「ええ」
「ならいい」
頭をぐるぐる乱暴に撫でられる。ザレルト翁の前では誰だって小さな子供の扱いになる。
「防寒具を確認しろ。雪の足音がする」
「わかった」
「出立は、日がてっぺんに昇るより前に」
うん、とうなずいたわたしの肩を、大きな手が軽く叩く。
「なるたけ早く出よう。おめえの弟くらい、このじじがすぐ見つける」
「うん」
「地図を忘れるな。あと、出発する前にテトの方に顔を出せよ」
「わかった。ありがとう」
黙って翁がうなずく。大きくて分厚いナイフ一本で、木片をなにかの形に削り出している。いつもだったらその様子をずっと眺めているけれど、そういう訳にもいかない。
一番大事な、桐の箱を開ける。止血剤、催吐剤、鎮痛剤と抗菌薬。胃洗浄の道具にメスと鑷子と鉗子、ガーゼ、包帯、消毒液、麻酔薬、針と糸。一通りの救急患者に対応できる道具が詰まっている。
使わないことを祈るしかない。基本的な道具はきっちり揃っていたので、個人的な好みで細かく調整して、愛用の道具を足す。ザレルト翁はほとんど医術を行わないので、彼の分の準備は必要ない。
わたしたちは人生の大半を医術と薬学に費やするものだけど、それは強制されるものではない。追跡と狩りを極めるザレルト翁のような人もいる。
自分の荷物を眺める。何本も並んだメス。縫合用の糸と針。よく透き通った午前の光が鈍く反射している。きちんと並べられたものは焦りを静めてくれるから、好ましいものだ。
「ハルねえさん」
一筋の明かりが差し込んで、テントの中が明るくなった。甘い発音で、わたしが呼ばれる。
「ねえさん……」
「そんなところにいないで、おいで。今なら大丈夫だから」
テトが、うつむきながらテントの中に入ってくる。クッションを引っ張り出して、横に座るように促す。黒いくせ毛の頭を抱き寄せた。目の下にくっきりとクマが浮いている。
「寝れてないの?」
「ねる……」
初めて聞いたかのようなおぼつかない口調だった。いつだってぴったり二人で生きている子たちだ。目の前で連れ去られたなんて、どれほどの。茶色の瞳からばらばら涙がこぼれてる。
「ねて、ないかもしれないわ。わからない。おぼえてない……」
「テト」
「きょう、ねえさんが行くってきいたの」
「ええ。姉さんが行ってくるわね」
袖をあてて、涙を拭く。なにも特別じゃない、茶色の瞳が光を失っていて、どう言葉をかければいいのかわからなくなる。抱き寄せて、自分の膝の上に乗せて、テトの髪に頬を寄せる。直接撫でることはできないので。
レトがいなくなったあの日に、本当にひどくあたられたというのに、わたしに頼らざるをえないテトが哀れで仕方がなかった。
「ねえさんはかえってくる?」
手袋をつけた手で、テトのほほを撫でる。呼吸一つ分の覚悟を嚥下して。
「ええ、もちろん。帰ってくるわ」
「レトは……」
いつもの明朗な話し方は遠く。後ろ手で手袋の留め具を外す。
「レトは、かえってくるかな。遠くにいっちゃった……」
「うん」
薄い布の手袋を床に落とす。寝かしたほうがいいだろう。どうせすぐには見つからない。手のひらで頬を撫でる、ちょうどいい処方はそのくらい。ふっとテトがまっすぐこちらを見上げる。
「でもね、ねえさん。わたし、きっとこういう日が来ることはわかっていたの」
「テト……?」
「わたしと、レトは、ずっと一緒じゃない」
いっしょにいられない。確信的な声だった。小さな手が、わたしの手をつかむ。
「わたし、待ってるわ。レトとねえさんが帰ってくるの。だから、帰ってきて。気をつけて。けがをしないで。なんにもできなくてごめんなさい。ねえさん、」
わたしの肌に触れれば意識がなくなるのを知っているのに、テトはわたしの手を強く握った。
「だいじょうぶ。わたし、レトがいなくなっても、平気。わかってたことだもん」
「そんなこと言わないの」
変な強がりを、と言葉をつなげる前に、テトの手から力が抜ける。呆然とテトの青白い顔を見つめる。この子は、なにを言ってるのだろう。テトには、魔女の資格がないはずなのに。みんなが当たり前に使える魔法すらも使えない子どもなのに。
はっと我に返ってテトの手から自分の手を引き抜く。長く触れすぎた。ロジンあたりに様子を見てもらえるように言い残さないといけない。テトの服をかき合わせて直接触らないようにしてから抱き上げて、自分のベッドにおろす。
「テト、行ってくるわ」
キスでもして、彼女の安眠を祈りたいけれども。それすらできない役立たずの姉だった。荷物を詰めなおして、テントから出る。よく晴れている。
レトがいなくなる、というテトの言葉はまた聞き直さなければならないだろうけど、今はそれどころではなかった。通りがかった子どもを捕まえて、ロジンを連れてくるように頼む。
待つ間に、テントの周りで咲いているエニシダを銀のハサミで切る。一番使い慣れている魔法の道具だ。ウエストポーチに詰め込む。よく通るレモンのようなにおい。
ハル、と耳に慣れた声がする。顔を上げる。
「急に呼んでごめん。いま大丈夫?」
「おれは大丈夫だけど。どうしたの」
「テトがテントの中にいるんだけど、触りすぎちゃって」
蜜色の瞳がぱちくりする。
「ハルが? 珍しいね。おれが看とけばいいの」
「お願いしてもいい?」
「もちろん」
ぐっと唇をかんでから、ロジン、と名前を呼ぶ。
「わたし、行ってくるわ。このテントには戻ってこない」
「……うん」
「三日後に戻ってくる。必ず。テトとみんなをお願い。あと、」
ウエストポーチと、背負ったカバンが重たい。持ち慣れた道具ばかりなので、この重みは友のようなものだ。
生まれた時からずっと旅をしている。母の腹から出てきた瞬間から、メスと薬と死体のあいだをさまようわたしたち。
死と死のあいだを歩き続ける名もなきわたしたちを、死渡りと指さす。誰よりも不吉な呼び名を背負って、血と膿のにおいを嗅ぎつけてホウキと馬に飛び乗って駆け抜ける。
美しい髪と眩しいほど白い服は、踏み続けた血膿を隠すため。
ロジン、と名前を呼ぶ。わたしの許嫁。わたしの友。わたしの……。
「わたしを待ってて。そしたら、帰ってこれるから。でね、わたしたち、たくさん話しましょう?」
「じゃあ、おれは、甘いものを準備しておく。たくさん。熱い紅茶とジャムも一緒に」
ロジンがわたしの髪をひと房持ち上げて、ほんの一瞬唇で触れた。太陽の金色から、夜の藍色まで色を変える、わたしたちの髪。変声期の、かすれた声が厳かに響く。
「おれは、ハルの好きなものをそろえておくのは得意だよ。だから、早くレトを連れて帰ってきたほうがいい。びっくりするくらいたくさんおいしいものを用意しておいてやる」
引き留める間もないくらい素早く背中を向けて、ロジンはテントの中に入っていく。わたしも踵を返す。もうここに用事はない。ザレルト翁にもう出発できることを伝えに足を踏み出す。
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