ハル・シオンと炎の街 ‐8

 夜風が火照った頬を優しく撫でる。風の精シルフの歌声が聞こえた。わたしがどれだけ心を痛めつけられても、世界は変わらない。

 世界は変わらない。それは、安心と、怒りの、紙一重のところに立っている、と、思う。

 風に乾いた唇を舌先で湿らせる。小さく痛みが走った。


「……ロジン、」


 想像以上に冷たい口調になってしまったことを後悔しながら振り返る。ばつが悪いのと怒ってるのとが入り交じった顔のロジンが、ホウキで飛んでいた。


「なんで、黙って着いてくるのよ」

「……うん」


 不明瞭な声だった。ロジンのホウキの先にぶら下げたランプに、ポシェットから取り出した火石かせきを放り込む。ランプの取っ手に彫り込まれた魔法陣が反応して、石が白く燃え始める。

 蜂蜜に似た色の目が、不安定な灯りを反射してほんの少し怖かった。昼と、夜と、瞳の色は、変わる、ような。気がした。


「……ハルは、怒るかと思って」

「怒るなら、ロジンの方だと思ってたわ。みんなに説明するのは、終わったの?」

「うん。別に、明日は今日とほとんど同じだし。たいしたことは聞かれなかったよ」

「そう。任せてごめんね」


 外衣のことや、チオラの顔が脳裏をぐるぐる回って、口からとめどなく出ていきそうになるのを留める。悪いことをしてしまったのは、確実にわたしだ。そっと胸の上の十字のネックレスをなぞる。


「なんでそんなに、ばつが悪そうなの?」

「なんでもない」


 返答があまりにも素早かったので口を閉じる。足首から先をぷらぷら揺らしながら周りを見渡す。なんだか気持ちがふしゅっと抜けてしまった。

 怒りと苛立ちは目隠し。昔、誰かが呟いてた言葉を思い出す。


「じゃあロジンは右側見てって。わたし左」

「うん」


 地面を見つめるよりも遠くを眺める方がいい。レトは簡単な魔法なら使えるし、まだ七歳だけど安全な火の取り扱いは覚えている。体の自由があるなら、火を焚いて狼煙代わりにするくらいは思いつくだろう。

 ぎゅっと押し込めた沈黙の中で飛ぶのは苦しいものだった。一歩、一言、で、変わるんだけど。たったそれだけを、踏み出せない。

 だめね、という思考停止を溜め息として吐き出す。ロジンがこちらを見たのが、白い光が揺れたので分かった。


「……ハル」

「なぁに」

「怒ってるの」

「怒ってないよ。べつに……」


 あのね、とわたしはひりひりする唇を動かす。


「怒ってないわ、わたし。だってロジンはわたしのこと考えてるんだもの。そんな親切に怒ることなんてないわ。違う?」

「言い方が怒ってるみたいに聞こえるんだって。怒ってるなら怒ってるって言って、おれにどうすればいいのか教えてよ」

「怒ってないから怒ってないって言うしかないんだもの」

「じゃあ、いまなにを考えてるの。教えてよ」


 街の灯りがずいぶん近付いていた。明るいのは、ちょっとだけ、嫌だった。わたしは、顔に感情がすべて出てしまうので。

 わたしが自覚していない感情すら出てしまう、ので。


「……いま考えてることは、」


 荒れた唇を湿らせる。硬くて皮膚がところどころで剥けている。


「わたしの考えてることは、レトを見つけなきゃってことだけ」

「それはやらなきゃいけないことだろ」


 なんで失望したみたいにいうのだろう。口に含んだ毒を吐き捨てるように。ロジンを瞳をちらりと見てから、目線を落とす。

 彼は、怒ると、冷たい目になる。


「ハルの考えを聞きたいんだ。ハルが自分のためだけにやりたいと思うようなことをおれも知りたいんだ……」

「それって必要あるの」

「必要ないって、ハルは思ってるの」

「少なくとも今は必要ないわ。わたし個人のことなんて、ぜんぶ瑣末なことよ」


 街の外壁に沿って飛ぶ。灯りはぽつぽつと数える程しかついていない。みんな寝ているんだろう。

 頭の芯が鈍く痛む。薬の効き目が時間で切れるように、魔法も時間で薄れる。


「わたしの意思が大事だった時なんて、一瞬もなかったし、これからもないの。必要なのは肩書きだけ。わたしは、本当は、必要ない。代わりだって、いるわ」


 必要ない。

 わたしなんて、本当は必要ない。

 誰にも必要ない。


「こんなわたしの許嫁に宛てがわれて、ロジンには申し訳ないと思ってる。ごめんね。でも、だから、わたしに気を遣う必要なんて、ないわ。それで構わない。あなたの休息の時間をわたしのために使うことなんてない。先に帰ってて、ロジン」


 手足の先が、夜風のせいでうんと冷たかった。


「……それは。できないよ、ハル」

「……どうして」

「なんでそんなふうに思ってるの。おれは、一緒に帰るよ」


 ロジンの声が、彼がうんと頑なになるときのものだったので、肩をすくめるにとどめる。白く発光するランプが高く掲げられる。ハル、とやわらかくなった声がわたしの名前を呼んだ。


「こんな時に聞くべきじゃなかった。もっとゆっくり時間がある時に、あたたかいものを食べながら話そう」

「なにを?」

「ハルのしたいこと」


 ロジンがポーチから取り出した種を手のひらの中で潰した。みるみるうちにツタを伸ばして、太いロープになる。

 幌と同じ織り方で出来た布の端を結んで、ホウキにくくりつける。簡易的なハンモックにもなるし、緊急搬送用の時にも使われる道具だ。


「乗って。疲れてるでしょ」

「……断ったら、怒る?」

「怒りは、しない、けど。おれってそんなに怒ってる印象あるの。これでも優しいにぃやで通ってるんだけどな」


 街をぐるりと回って、四分の三ほど過ぎている。わたしの弟が見つかるような兆候はない。ちょっと考えてから、ロジンのホウキに近寄る。


「じゃあ、ごめんなさい。たぶん寝ないとは思うんだけど、寝てたら起こしてちょうだい」

「寝ててよ。目をつぶってて」

「いやよ、寝るなんて。とんでもない」


 語調を強くすれば、呆れたようにロジンはため息をついた。でも、わたしが嫌と言えば、みんなため息ひとつで言うことを聞くのだ。

 総領娘とは、そういうこと。ホウキから足を伸ばして、ロジンのホウキに出来た一時的なハンモックに乗り移る。膝丈のスカートがうざったいので、思いっきりたくしあげる。

 いっそスカートはうんと短い方が動きやすいのにとすら思う。走るのにも、飛ぶのにも、しゃがむのにも邪魔な丈だ。上等な服だと知っているので、文句は言わないが。

 布に体を預ける。わたしのホウキは大人しく並走している。手だけ伸ばして、つるつるの柄を撫でた。


「ロジン、ごめん」

「なぁに」


 白いランプが月のよう。


「どこかで寝てしまいそうだわ、わたし」

「俺としては、それでいいんだけど。ハル、ひとりで徹夜の捜索なんて、効率が悪いよ。なにより、体に悪い」

「……わかってる……」

「じゃあ、止してよ。お願いだから」

「うん。今夜で最後」


 目をつむる。今夜で最後。決めていたことだったし、わかっていたことだった。


「わたし、明後日には山にいるわ……」


 、と本能が囁く。魔女の、おもむくままの、本能。


「分かってるの。あの子を見つけられるのはわたしだけ。でもそれは今夜じゃない。今じゃ、ない、けれど」


 世の世界の理をつくったのは、幾人かの魔女たちだという。彼女たちは月の光や太陽の火の粉、花びらの歌に乗せて、魔法の力を世界中にばらまいている。

 その、ちからを、深く吸い込んで、おぎゃあと産声をあげてしまえば。


 生まれつきの魔女を名乗ることになる。


 預言めいたことをするわたしを抱き寄せて、大叔母が沈黙を諭したのを、今でも覚えている。勝手に口が動くのも、知らないはずのことが視えるのも、正解の道だけを選べるのも普通のことだと言ったら、それが魔女よと大きな青い目が言ったのだ。


「わたしはレトを見つける。それを知っている。でも、あの子が生きてるかは分からない。わたしの弟のことなのに、生死がわからないなんておかしいと思う」

「うん……」

「だから、わたし、怖くて……」


 言いかけた言葉を飲みこむ。強い娘であらねば。不安だなんて似合わない。


「ううん、なんでもない」

「……そう。ねえ、とにかく休んでよ、ハル。おれのためだと思って」

「ええ。そうする」


 水飴のようにどろりとした睡魔が襲ってくる。落ちかける意識を唇を噛んで一瞬だけ浮上させる。


「ロジン、新しい外衣を注文してくれたでしょう。どこか傷んでた?」

「うん、まあ、そんなところ」

「そう。確認するの、忘れてたのね、わたし……」


 優しい夜風が吹いていた。ロジンはホウキに乗るのがうんと上手だからほとんど揺れはない。


「ふつうにあるものだと思って、確認してなかった。だめね……」

「ハル。寝てったら」

「うん」


 大きく息を吸う。それを全て吐き出すのと同時に意識は沈みきってしまった。

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