ハル・シオンと身中の毒 -1

 木靴を丁寧に磨き上げる。新品の木靴は少し荒い削り出しになっているところがあるので、軽く紙やすりで磨いて、塗料を塗り直す。鮮やかな黄色を地に、青と赤、白の雫の模様。大叔母が最初に作ってくれた木靴の真似を十年以上し続けている。

 今日は街のお祭りなので、診療所は休みだ。本当は患者さんたちやご家族が座るために外に置いてある椅子を借りて、木靴をいじっていた。遠くで歌声や歓声、楽器が響いている。遠くがにぎやかだと、自分の周りの沈黙が重たくなる。

 塗料が乾くまでなにをしようか迷いながら山肌を見上げる。山の半分は雪が融けて、青く葉が芽吹いている。白く跳ねるのはヤギだろうか、羊だろうか。

 明後日には、この街から出発だ。さみしさは、あまりない。いつものことだった。今朝方、ヤナが診療所に顔を出して、少し泣きながら手を握ってきたのが、なんだか申し訳ないくらいだった。


「ハルさん」

「はあい」


 窓の中からセルアさんが顔を出した。


「精が出ますねえ。寒くないですか?」

「今日は太陽がよく照っているので」


 もう雪はほとんど解けて、気温もあたたかくなってきている。それでも夜は火を焚かないと歯の根が合わないほど冷え込む。もっと暑くなる時期でも、天気が悪ければ暖炉を使うとは聞いている。太陽はあたたかいけど、風はまだうんと冷たい。

 作業中は邪魔だったので、椅子の背もたれにかけていたショールを羽織る。塗料が指先についているのを、こすり合わせて落とす。


「ならいいんですけど。夕飯はどうしますか? よければ、なにか作りましょうか?」

「ああ、いえ、そんな。大丈夫です。リーダイになにか、おいしそうなの買ってきてって言ってるので」

「そうなんですね」


 にこっとセルアさんが笑う。右頬にえくぼが出るのが、彼女の笑みだ。


「今日はなにもなさそうですね。奥で休んでていいんですよ。休みなんですから」

「出発までに靴をきれいにしておきたかったので……これが終わったら、自室で休んでいると思います」

「わかりました。……ハルさん、せっかくのお祭りの日なのに、診療所にいて、よろしいんですか?」


 どうにか笑みを取り繕ってみる。お祭りの日であっても、診療所を空にすることはできない。誰もが嫌がる当番だけど、今年は自分から手をあげることにした。新年のお祝いをなくしてしまった負い目があったし、お祭りなんて行っても絶対に楽しくないとわかっているからでもあった。


「はい、大丈夫です。あまり人ごみは好きじゃなくて」

「前回来たときは、楽しそうにされていたのに。今からでも行ってきて大丈夫ですよ。診療所は私がいますし、診療所長も先ほど戻ってこられていましたから」

「本当に大丈夫です。今日の当番はわたしって決まってるんですから、今から変更するなんてとんでもありません」


 勘弁してくれと小さく思う。会話を切るために塗料の瓶を箱に詰め直してみたけど、セルアさんは立ち去ってくれはしなかった。


「テットさんも行かないで、残っていますし……その、なにか遠慮されているんじゃないかしらと思って。どうせ私なんてずっとここにいるんですし、構わないんですよ」

「いや……あの、あまり、にぎやかな場所に行きたくないだけなんです」


 家族がそろっている人は子どもを連れて行きたいだろうし、若い人たちはこの祭りを出会いの場にすることもあるだろう。わたしの父はどうせ引きこもっているし、母は隣街からまだ帰ってきていない。そろそろ赤ん坊が生まれるころだと手紙が一昨日届いた。おそらく、わたしたちがこの街が出発するには間に合わないだろう。伯父を先導者として、先に次の街で行くことになる。

 新しい木靴をようやく手に入れたので、のんびり手入れするだけで、まあ充実した休日だろう。急患が運び込まれてこない限りは休みなので、なにをしていても自由だ。さすがに勉強は休みとしている。

 最低二人は診療所に残さないといけないというなら、わたしでいいだろうという、判断だった。何度かお祭りは行ったことがあるし、リーダイやロジンが買ってきてくれるお土産で、充分だった。テトは今からでも行って来たらと思うけれど。

 行かないですと、わたしに言った口調が、本当に頑なだった。あんなに楽しみにしていたのにと、わたしも問い詰めたかったけど、ねえさんも診療所にいるのにと反論されたら言い返せなかった。リーダイたちは、今朝まで粘ってくれていたけど、結局診療所に残っている。

 今頃本を読んでいるか、パンでも焼いているか、好きにしているだろう。少し様子を見に行こうかと立ち上がる。


「次こちらに来たときは、行かせてもらうことにします」

「そう?」

「はい。ちょっと、テトの様子見に行ってきますね」


 軽く会釈をして、裏口の方へ回る。鳥が鳴いていた。雪解け水で地面がぬかるんでいるので、レンガの道をたどっていく。外履きから履き替えて、台所の方へ向かう。久々に大きく窓を開けた室内は少し寒いけど、清々しい空気でいっぱいだった。

 甘いにおいがする。奥の方でちいさな頭がちょこちょこと動き回っているのが見えた。


「テト」

「ねえさん」


 茶色の瞳が、わたしを見上げて笑った。オーブンの前から離れて、こっちに駆け寄ってくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る