ハル・シオンと暗の道 ‐5
寒さでかじかんだ指で、琺瑯のコップを握りしめる。洞窟の中から、血の気の引いた指が、わたしの頭を指さした。
「怪我を、していたと思ったが」
「ええ。もう治ってます。ご心配は結構です。ご用件は?」
「人が来たから、奥から出てきた。それだけだ」
しわがれて、聞き取りにくい声だった。ぐっと唇を噛む。しばらくわたしに寄り添っていた血の味はしない。ささくれはさっきの魔法で治ってしまったんだろう。
「わたしを洞窟の中に運んでくださったのは、あなたですか。ありがとうございます」
「雪が降るだろう。確か、人は、寒さに弱い」
「ええ、そうですね。否定はしませんけど」
ここまではちょっとした前座と言うべきものだった。絡まりあった髪の毛を手ぐしで最低限整える。
魔女として振る舞うならば、一部の隙もない格好をしたいものだ。
たたかい、を、挑むのだ。ならば髪をきちんとまとめて、シワひとつない服を着て、塗料を塗り直した木靴を履いて、笑いながら立ち上がるべきだろう。
立つこともままならないけれど。色鮮やかな髪と笑みだけは、必ず持ち合わせている。
「さあ、あんまり馬鹿にしないでください。わたしに、なんの用事なんですか? わたしの弟はどこにいるんですか? 返してください。彼は、わたしの弟よ」
「……」
ざらりと音を立てて、黒い布が傾ぐ。フードの奥で、目と思しきものが光を反射した。
「……眩しいな」
「火をたかないと死にますもの、わたし。我慢してください。わたしだって、たくさん我慢してるんです」
「そのままで構わない」
決して
「貴女が弟を選びに来たなら、渡せと言われている。ついてくるがいい」
「……誰に、言われているの?」
うっそりとフードの奥の瞳がすがめられる。
「そちらは言わない約束になっている」
「……そうですか。べつに、弟が帰ってくるなら、なんでもいいです。わたしは、どちらに行けばいいのですか」
「洞窟の奥に」
右足に体重をかけないように、慎重に立ち上がる。カバンを背負って、ポンチョに似た外衣を頭から被る。
ホウキの柄を地面につく。右の靴をカバンのポケットに突っ込む。包帯で固定はしたけど、あんまり足はつかないようにしたい。どれほど歩かされるかわからないけど。
焚き火に土をかけて火を消す。じろりと見上げる。
「わたし、あなたのお名前を聞いてません」
「……主だ。この洞窟の主。昔は、名前があった。それだけで充分だ」
「それでは、主様。どこかまで、ご案内お願いします」
「その足は」
「治しません。このままで」
洞窟の中に足を踏み入れる。肩の上に暗闇が降りる。首から下げた十字を二回叩く。ぼうっとオレンジに光るのを道しるべにする。
乾いた地面で助かったと思う。鍾乳洞なんかだったらまともに歩けてたかも怪しい。先導する、洞窟の主がふとこちらを振り返る。
「なぜ治さない? 不便だろう」
「捻挫は、結局冷やして固定するしかないんです。痛み止めを飲んでもいいけど、わたし、薬は効きすぎるので、ここじゃ飲みたくないんです」
始めの分かれ道は右。ほこりっぽい空気になる。ざらざらの岩肌が指先に触れる。うんと暗い。十字架に灯した蝋燭ほどの明かりがなければ、鼻もつままれてもわかんないほどだ。
黒いローブがゆらゆら揺れる。たくさん重なっているのか、重そうな動きだ。
「薬が効きすぎるというのは、生まれつきか」
「……まあ、そんなところです」
垂らしたままの髪が視界に入る。腰まで届くわたしの髪の毛の先は、葡萄に似た紫だ。前髪は赤っぽい橙。くるくるのくせ毛は父譲りだが、色鮮やかさは母のものだ。三叉路の真ん中を進む。
「肝ノ臓があんまり強くないんです。生まれた時から酷使してるので」
「肝ノ臓……」
「肝ノ臓は、栄養素の処理と、解毒を主に行います。わたしの血液には、毒が流れているんです。生まれた瞬間から、わたしの肝ノ臓は、ずっと、働きず、め、きゃっ!」
ずるっと足が滑った。なんとか手をついて、膝を強打するだけは阻止する。手袋をはめておいて良かった。素手だったら手のひらの皮膚が剥けていただろう。洞窟の主が手を差し出しているのを無視して、ホウキを強くついて立ち上がる。
「汗腺を通して、毒が常に分泌されています。わたしには触らないでください。……ええ、でも、ありがとうございます」
「……不便な体だ」
そうかもしれませんね、と呟く。一年中手放せない手袋や、避けざるを得ない半袖の服を思えば、心がざわつく。みんなが当たり前のようにしている飲み物の回し飲みや、抱きしめ合うということ。
子どもは望まないようにと、初経が来た時に、母から言われた。
わたしの毒はへその緒を通して、胎児の血液に混じり、殺してしまうだろう。
「不便ですけど、悪くはないんですよ。睡眠薬として使えますから、医療の現場だとなにかと便利です。効果が強い分、副作用も強いですけれども。でも、薬とはそういうものです」
副作用のない薬なんてないのだ。一度二度、ほんの少しの処方なら問題ないのが、わたしの毒。不便だけど、悪くはない。
額に滲む汗を手の甲で拭う。洞窟は緩やかな下り坂になっていて、片足を引きずる身では、数歩ごとに洞窟の主が立ち止まって待つほどの速さでしか進めなかった。
体重のほとんどを支えている左足が痛む。さっき転んだ時に右足も強くついてしまったので、また腫れがひどくなってしまうだろう。は、と息を漏らす。やはり、痛み止めをも飲むべきかもしれない。べつに、治るわけじゃないけど、この一晩、耐えればいいのだ。
一瞬足を止めて、でも、やっぱりダメだ、と決める。
いま持っている痛み止めを飲んで、副作用で寝てしまって馬から落ちたこともある。やはり飲むわけにはいかない。それに、判断力を落とすのも避けなくてはならない。
洞窟の主が足を止める。フードが重々しく揺れて、ちらりと顎先が見えた。どうやら人の形ではあるらしい。しわがれた咳払いをひとつ。
「少し、休もう。先は長い」
「……ありがとうございます」
岩肌にすがりつきながら座りこむ。靴と靴下を脱いで、取っておいた氷で冷やす。どこまで歩いて行けるだろうか。まだたどり着いてもいないけど、帰りを思えばうんざりする。
洞窟の主が、じっとわたしの腫れあがった足を見つめている、気がする。表情はおろか、顔も見えないのですべて想像だけど。
「……痛むか」
「え? ああ、はい。痛いです」
思いのほか、人に近しいらしい。きょとんとしたせいで、返事が変なテンポになってしまった。ローブの重い布から手が伸びて、触れる直前で止まった。
「……触れない方がいいのだったな」
「そうです。まあ、ご心配なさらないで。このくらいの怪我なら、よくあります」
旅していたら、靴擦れも、捻挫も、骨折もよくあることだ。ふだんだったら、もっとしっかり冷やして軟膏も塗るから、こんなに腫れたりしないが。ないものねだりしたってしかたない。
ホウキに乗ってしまえばいいのかもしれない。洞窟の高さが低いので、避けたいところだったけど。
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