ハル・シオンと暗の道 ‐4

 恐ろしき蛇がいて、この山の主であるなら、眠っている彼に従って眠っているのは、納得のいく話しだ。

 岩肌のわずかな凸凹をつかまえて、崖沿いの細い細い道を進む。額から脂汗が落ちた。まずい、ような、気がする。ぐいっとホウキの穂先が捻れる。外衣の裾が引かれる。水が川下に流れて行くように、わたしの足が進んで行く。

 見つかり続けている、し、手を引かれ続けている。来いという、誰かの意思を押し付けられている。良くない状況ではある。


「……翁」

「どうした」

「まずい、かもしれない。今、わたしの意思で歩いていない」


 側頭部に鋭い痛みが走る。髪の毛を引っ張られた。


「歩けないの、」


 カバンの、肩ひもを引かれた。

 あ、とザレルト翁の口が大きく開いたのが見えた。わたしの体の半分を覆う大きなカバンが、崖下に向かってバランスを崩していく。やってしまったと刹那のうちに思って、ザレルト翁の右手とわたしのホウキとどちらを選ぶかを、考えて、

 ホウキを選んだ。


「ごめんなさい、翁」


 落ちてしまう。靴の中で足が滑る。ホウキを握りしめる。


「わたしが、行かないといけないみたい!」


 ホウキにすがりつく。重力にからめとられて転がり落ちていくホウキの柄をふとももで挟み込んで、上半身を屈めて、なんとかコントロールを取ろうと試みる。

 岩場と針葉樹の間をすり抜ける。わたしの意図なんかお構いなしで、登ってきた山を転がり落ちていく。頬を木の枝がかすめて血が飛んだ。そちらに一瞬気を取られた隙に、眼前まで大木が迫っていた。

 声も出ない。

 頭を思いっきりぶつけて、まっさかさま。


          *


 ずきんとこめかみが痛んで、意識が上昇した。


「いっ、た」


 上半身をゆっくり起こす。乾いた地面と、岩の天井。明かりと風が右手からこぼれている。めまいと吐き気はない。視界にも異常はないので、頭の中の出血の兆候はないと判断する。手足がところどころ痛むのは打撲だろう。大きな出血と骨折はしていない。

 は、と息を吐く。無事だ。

 立ち上がって、洞窟の外側に向かってゆっくり歩く。灰色の外衣の隠しボタンを外して脱いで、左腕にかける。服はところどころにひっかき傷ができて、無残の一言であった。

 外は背の高い木々に囲まれていた。ぽっかり丸い月が見降ろしている。わたしのカバンとホウキが散らばっていた。月明りを頼りに拾い集める。満月でよかった。カバンの外に下げていたランプは割れてしまっている。ザレルト翁なら直せるんだろうけど。

 洞窟の入り口に自分の持ち物を置いて、薪になる枝を探しに出る。月明りは明るいけど、このままだと凍えかねない。あちこちに作ってしまった傷ももっとしっかり見て処置をしなくては、破傷風にでもなったら洒落にならない。

 わたしがぶつかったと思しき大木の根元で、枯葉のついた枝と、少し太い枝を両腕いっぱいになるまで拾う。痛みで脂汗が額に浮くくせに、空腹と気温のせいで寒くて仕方ない。足を引きずりながら洞窟の前に戻って、地面を掘る。枝を置いて、震える指でなんとかマッチを擦る。

 小さな火が枯葉に移って、木の枝が燃え始まる。乾いているかとか、燃やしても大丈夫なものかとか判断する余力がかけらもないので、ちゃんと焚き火になるように祈るしかない。


「……ああ、死ぬかと思った」


 岩に背中を預ける。疲れと痛みで意識が吹っ飛びそう。

 カバンを引きずり寄せて、中を漁る。調理器具と処置の道具の入った箱を引っ張り出す。鍋に水筒の水を入れて火にかけて、沸騰するのを待つ間に靴を脱ぐ。右足首が赤く腫れている。

 こめかみに触ったら、赤黒いものが指についた。かさぶたになりかけている血だった。目をつむって、十数秒、考える。

 舌打ちをする。


「……くそったれ。知るか」


 ウェストポーチの中のエニシダをわしづかみにしてぶちまける。首から下げた十字架に触れて、冷たい感触を確かめる。


lumiere ambreeあたたかきひかりよ, ここに集まれ」


 指先が橙色に燃え上がる。まずはこめかみ、範囲の広い擦過傷だ。無駄にできる水がないので、裂けた皮膚と血管を魔法で貼り合わせながら、入り込んだ土を外側に押し出す。大きいだけで単純な傷なので、処置は数分で終わる。

 足首は捻挫だろう。ギリギリ歩けたので、足首の靭帯が伸びただけだ。箱の中から、幅の広い包帯を出して足首に巻いていく。固定がすんだら冷やさないといけないけど、氷も軟膏もない。

 エニシダを一本。口元に寄せる。


「痛いの。冷やして」


 ぱきんと音を立てて、エニシダの花が凍った。コップに分けた水の中に茎から入れたら、中身がすべて凍った。エニシダが木っ端みじんになる。炎でコップを軽くあぶって取り出した氷を厚手のタオルにくるんで、足首にあてる。外衣を丸めて、足の下に敷いて一応挙上しておく。

 いらだちの勢いに任せて、体中の擦り傷を魔法で治す。あざは放っておくことにする。血管をふさいで回っているので、これ以上ひどくはならないだろう。体内で魔法がうずまく。全身が橙に燃えているよう。

 山の中では魔法を控えようと思っていたが、知ったこっちゃなかった。そもそも喧嘩を売ってきたのはあちら側だ。馬鹿にしやがって、と口汚く罵りたいくらい。

 わたしの荷物は外に散らばっていて、わたし自身は洞窟の中にいた。つまり、だれかが、わたしをあそこまで運んだということだった。

 その誰か、は、弟をさらったモノしかいないだろう。

 弟をさらわれて、無理やり引きずり込まれた。相手の姿も名前も目的もわからないままだ。こんなに乱暴にされて、なにが刺激しないように山に入ろうだ。明かりが嫌いというなら、わたしの魔法はうんと嫌いで不愉快だろう。ざまあみろ。

 わたしに来いと言えるのなら、言えばいい。納得のいく理由ならどこまでも行ってやろう。わたしが、レトが、なにをしたっていうんだ。

 沸いたお湯に今朝食べたのと同じ、ミルクスープの素を入れる。マカロニは省略。干し肉を出して口に入れる。きつい塩の味と肉の味が口に広がる。ミルクとチーズが解けたので、塩コショウを入れて、乾パンを浸す。


「……」


 頭を振って、髪から魔法の残滓を振り払う。橙の光がぱっと散った。


「こんばんは」


 冷えた空気のにおいのする、洞窟を振り返った。


「用事があるなら、どうぞ」


 ゆらりと、黒い影がうごめいた。固い乾パンを奥歯で噛み砕く。もう少しスープを煮詰めたら良かったかもしれない。舌が火傷しそうなくらい熱いスープを飲んだら、腹の底が温まって元気が出てきた。

 怒りに奮い立てる今のうちだった。どうぞ、と強い口調でもう一回言う。


「あなたがどんな存在か知らないけど、用事があるならさっさと言えばいいと思います。わたしには用事があるので、お早めにお願いします」


 冷たい土のにおいだ、と思った。黒くて重たそうな布の中から、節くれだった指だけが伸びていて、顔はフードの奥に隠れて見えない。

 人じゃない、と、思う。

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