ハル・シオンと暗の道 ‐6
氷を包んだ細長いタオルを足首に結ぶ。冷たさが心地よかった。ずいぶん炎症がひどくなっていたので、これ以上ひどくならないといい。カバンの背負い紐を一番短く調整して、ホウキの柄に通す。引きずるようだったら、前に抱えて飛ぼう。
水筒の水を飲んで、塩とレモンを水あめに混ぜて固めた飴玉を口に放り込む。洞窟の中で火を焚くほど馬鹿じゃあないけど、火が欲しくて仕方なかった。汗が冷えて体温がうんと下がっている。
「……寒いですね」
「ここは、いつでもこのくらいだ」
「……わたし、一番大切なこと聞いてなかった」
ざっと血の気が引くのがわかった。わたし、ああ、なんて馬鹿なんだろう! いつもこんなに寒い場所で、七歳の子供がいるなんて。
「わたしの、弟は無事なんですか? 怪我は? 病気は? してませんか?」
「……見合う答えを持っていない」
「言葉を変えます。わたしの弟の心ノ臓は動いていますか? 呼吸はしていますか?」
「……肯定だ」
「そう。……そう。なら、いいんです」
それなら、どうだって、なんだってなる、と思う。生きていれば、命があれば。詰めていた息を大きく吐く。緊張で呼吸が浅くなってしまっている。きちんと頭に酸素を回さないと。
飴を奥歯で噛み砕いたら、立ち上がる元気が出てきた。右足をかばいながら立ち上がって、ホウキにまたがる。地面から親指ほどの高さで飛ぶ。上も下もぎりぎりだけど、なんとかなりそうだ。洞窟の主に、うなずいてみせる。
「大丈夫です。この山で、ホウキが禁忌だとか、ありますか?」
「強いて言うなら、灯りだが」
「ホウキから落ちて死ねと仰るなら、消します。さ、行きましょう」
ふとももで軽く柄を挟んで、進行方向と高さを慎重に調整する。頭もつま先もすれすれだから、うっかりするとぶつけてしまいそうだ。
道案内に従って、ゆるやかに下っていく。真っ暗なので、時間の感覚は失ってしまった。足首から滴り落ちる氷の融けた水だけが変わり映えするものだ。ふと頬に冷たいものが落ちる。乾いた岩の隙間から、ひたひたと水が落ちていた。
「……あら。湧き水かしら」
「そのような豊かなものはない。みぞれか、雪が降ってきたのだろう」
たしかに冷えが厳しい。吐く息も真っ白だ。あんまり寒いとザレルト翁の安否も気がかりになる。けど、たぶん、ザレルト翁の方がわたしの何倍も心配してる。
戻ったら、うんと叱られるだろう。ゲンコツのひとつやふたつはもらうかもしれない。その後はきっと兄やと姉やにも叱られるし、ロジンには怒られる。
足首の怪我を見てテトは目にいっぱい涙を溜めるだろうし、そしたらレトがぎゅっとしかめっ面をするだろう。
これらが、ハル・シオンを取り巻く愛情だという自覚はある。
唇を噛み締めて、思考を切り替える。前歯が唇の薄い皮を破って、潮と鉄が入り交じる血の味が口の中に広がった。
「主様。わたしの弟は、なにを食べているのでしょう? 湧き水もないとおっしゃってましたけど、人は水がないと三日で死にます」
「……さあ。それは、わからない」
「でも、生きてるんでしょう? あんな小さな子供が、飲まず食わずで、この気温の中で生きていけるものですか」
煩わしそうに、主の手が振られる。
「言わぬ。……私は、この山の主でもなければ、なにかの力を持っているわけでもない。この山の王は眠っている。私はただの先触れで、案内役だ。此度はただ逆らえぬ相手の指示に従っているだけ。言わぬことは言わぬ。教えるべきではないことを決めているのは、私ではなく、相手だ」
ぐっと手に力が入ったせいでホウキがブレた。冷たい口調の、冷たい言葉だけど、勘違いをしてはならない。彼が案外優しい存在だったので、どうすればいいのかほんの一瞬わからなってしまった。
山の主はまだ眠ったままで、レトは無事で、山の主ではない命令を下せるような存在がここにいる。言外に潜められた情報を精いっぱい整理する。主がかんで含めるように、言葉を続ける。
「一番下に、大きく開いた場所がある。私が共に行くのはそこまで」
「そこに、レトがいるんですね」
「さあ。そばらくそこに行かぬように言われている。ただ、少なくともそこに山の主はいない。彼は頂上にいる。なんの力も持たぬ私でも、頂上を貸すよう言われていたら断っていた」
「わかりました。間違っても頂上には行きません。……いろんなことを教えてくださいますね。どうしてかしら。わたし、なにをお返しもできません」
フードがこちらを振り返る。
「このような子どもが、このような場所に来るべきではないと私は考える」
「わたし……」
少しためらってから、言葉をつなげる。洞窟の中で、声がぼんやり響くのがやけにうざったかった。
「……わたし、子どもじゃありません」
「何を言うかと思えば。子どもだろう。人間だって、そう言うはずだが。お前の弟も子どもだ」
「弟は、そうですけど。でも……」
ひたひたと水が滴る音が響いた。ここで言い張る方が子供っぽいような気がして、口をつぐむ。子どもじゃない、って、言葉にするのは子どもだけだ。血の味を舌先だけで味わって、ぎゅっとホウキの柄を握りなおす。
この間、新年のお祝いをしたばかりだ。今年で十三歳になるから、子どもの中では一人前の扱いになる。そうだとしても、今すぐわたしの扱いが変わるわけではない。そう思うと気が塞ぐ。はやく、一日でもはやく大人にならなくちゃいけないのに。
今考えたって、仕方のないことだ。いつか必ず大人にならなければならない日が来る。今はせいぜいレトの姉として、彼を迎えに行けたら満足すべきだろう。
ただただ冷えている空気の中に、つんと鼻につく煙のにおいがした。思案に暮れて伏せていた顔を上げる。ぽっかりと暗闇が口を開いている向こうに、不安げに揺れる明かりが見えた。
「娘」
「はい」
「私はここまで。弟を連れて戻れ。再会は願わない」
寿命の長い存在が、よく口にする言葉だった。再会は願わない。次会うときに、人間の友である保証はないから。人間とともに生きていくことは諦めているから、再会を夢見させないでくれ。二度と会わない。
黒いローブが闇に飲み込まれていく。案内人が帰る。お礼を言わなきゃ、と慌てて開いた口を、主の手が閃いて止めた。
「あとは己のみ信じて行くが良いよ。もっとも」
「主様、」
「魔女であるお前には、不要な言葉であろうが。信じるが良い。ここまで己が意思で来た人間は何百年もいなかったのだから」
「……はい。案内、感謝いたします」
黒い布が最後に揺らめく。彼はきっとこの後、わたしの灯りのせいで痛む目を休めるのだろう、とふと思った。この暗い洞窟の中にいる存在にとって、わたしの魔法は攻撃と変わらない。
慎重にホウキから降りる。大きく空間が開いているのが、空気の圧の軽さから察せられた。深呼吸して、広間のようなそこに足を踏み入れる直前に、しわがれた声が、わたしの耳元でささやいた。
「……ただ、ここまで来たことは、決して幸福ではなかろうよ……」
きゅっと唇を噛み締めて、ゆっくり踏み出す。そんなこと、わたしに教えてもいいんですか、と聞きたくなった。返答は今度こそないだろうから、口は開かないけれど。最後まで親切にしてくれてありがとう。言い損ねた言葉を胸中で呟いて。前を向く。
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