ハル・シオンと白の道

天藍

ハル・シオンと炎の街 -1



 どこかで花が咲いてくれと祈るばかりだった。



 焦げたたんぱく質のにおい。焼けちぎれた髪の毛。服はもはや用をなしてない。なにより、血が。

 ハル、と母がわたしの名前を呼んだ。布の手袋を外して、その女性の頬に触れる。わたしの皮膚の中に眠る毒を、女性の皮膚に流し込む。深い眠りを呼び込み、あらゆる感覚を麻痺させる、薬に似た毒だ。

 ――こういうとき、どうして世界は遠くになってしまって、地面はふらふらするのだろう。言葉にしたら誰かが答えてくれるだろうけど、いつまで経ってもそれは口から出てこなかった。


「……おかあさん」


 うつろな瞳にささやく。きっと、死にゆく人が呼ばれたかった呼び方で。


「おかあさん。大丈夫よ。目をつむっててね」


 ひゅー……、と、女性の喉から細く吐息がこぼれる。ごぽごぽと喉の奥で血が唾液と胃液と混ぜられる音がした。


「ええ。そうね。でも、大丈夫よ。わたしたちが来たから。あなたはおかあさんになるんだから。なれますとも。だからいまは、眠っててね」


 柔らかい焦げ茶の、大きな瞳がゆらゆら揺れていた。わたしはそれをしっかり記憶する。母親の瞳の色を語れるのは、きっとわたしだけになってしまうだろうから。

 わたしの母親が、特殊な器具と手技を持って、女性の腹を割る。同時に魔法の詠唱が始まる。赤ん坊の弱った心肺を助ける呪文だった。新鮮な血臭が、焼けた肉の臭いをかき分ける。

 遠くで山が焼けている。けが人のうめき声が充満していて、その間を白い服を汚した人間が駆けずり回る。夕焼けがすっかり夜に追いやられた頃に、ひとつ、産声があがった。


「ハル」

「はい」

「あなたが、この子たちの面倒をみなさい。馬車に戻ってていいわ」


 返事を待たずに母は立ち去っていく。たった一人にかまけてられない、のは、充分に分かっている。わたしは黙って、女性の顔に布を被せた。

 簡素なおくるみの中で、赤ん坊が細く泣いている。馬車には綺麗な水がたくさんあるし、留守役があたたかく火を灯し続けているはずだ。長い帽子を被って、赤子を抱き直す。


「……おやすみなさい」


 母親になりたかったであろう、まだ歳若い女性につぶやく。どうやって、あの燃え盛る街から、ここまで這いずってきたんだろう。下半身はほとんど使い物にならないようなからだで。臨月に近い腹を抱えて。燃え盛る街と山を越えて。

 ごめんなさい、とは言ってはならない。不文律。

 遺髪もない。形見もないだろう。山から降りてきた火は、古くからの伝統と血筋ごと街を焼き払った。なんにも遺りやしない。

 だからわたしは、あなたの瞳の色を覚えて行く。


 さようなら。おかあさん。

 わたしだけは、あなたが母親だったってこと、心に刻む。


           *


 旅するわたしたちの朝ははやい。

 小鳥たちの微かな鳴き声に目を覚ます。綺麗な水で顔を洗って、白い服に着替えて、手袋をつける。馬の手綱を引いて水を飲ませて、そのまま自分で食事を済ませられるように放す。昨夜干した薬草を回収して、決まった位置に片付ける。

 料理役が食事を作り始めたら、何人かいる弟妹を起こして回る。一番上のにいやとねえやは今度の春から患者の世話に回るようになった、ので、三番手のわたしが細々世話を見なくてはならなくなった。


「起きて、ほら。お水かけるわよ」


 うー、と毛布の中からうめき声があがる。何度か、本当に水をかけて起こしたことがある。わたしは嫌になるほど短気でせっかちだ。


「いいよ、」


 ふっとエニシダのにおいがした。同じ歳のくせにうんと背の高いロジンが笑う。


「ハルはご飯の用意してきてよ。あとはおれがしとく」

「はぁい」

「リーダイが手伝ってって言ってた」

「ん」


 立ち上がって膝をはらう。ロジンの、甘い蜜色の瞳が朝日を反射する。

 ロジンが穏やかな声で弟妹たちを起こしていくのを背中で聞いて、わたしは調理場に向かう。調理場はかならず二つ以上作らなくてはならなくて、ひとつは患者たちの食事を作るために用いられる。リーダイがいるなら、患者たちの調理場だ。

 テントとテントのあいだを抜けていく。腰のポーチから布を出して、顔の下半分を覆う。周りの人より、頭一つちいさなわたしのお父さんに向かって歩く。


「父さん。おはよう」

「おはよう」


 父の周りは、いつもツンとした薬草のにおいが覆っている。彼の得意分野は、薬学なので。

 ハル、と父がわたしの名前を呼んだ。


「ハル、今日の夜は新月だから、オウセキソウを摘みに行くよ」

「うん、わかった。このあいだの崖の下でしょ?」


 父の存在、というのは、わたしにとって本当に偉大で、おまけに安心感もついてくるというお得なものである。朝焼け色の髪をうなじでひとつにまとめた後ろ姿を追って、山野や川辺りを練り歩いて薬草を集めるのは、わたしの一番のお気に入りの遊びだった。

 父の横にしゃがみこんで、ミルの中を覗き込む。乾いたレモンのにおいがした。想像していたものは入っていなかった。


「……これ、エニシダじゃないのね」


 わたしたちに付き物なのは、黄色の花を咲かせて、レモンに似たにおいがするエニシダなのだけど。白い陶器のミルの中に入っているのは細長い葉っぱだった。


「ああ、よく分かったね。レモングラスだよ」

「葉っぱの形が違うもの。どうして、レモングラスを?」


 父が、テントの方を見る。おおきなおおきなテントがいくつも建っている。てっぺんには、黄色、赤色、黒色の旗がそれぞれ立っていて、その中にはたくさんの患者がベッドに横たわっていて、あいだあいだをわたしと同じ真っ白の服を着た、この旅団の仲間達が走り回っているだろう。

 あの山火事と爆発事故が起きた日から、一週間経った。あの日の地獄を思えば、嘘みたいな穏やかさだった。


「南の国で買ったんだ。これは」

「うん……でも、べつに、珍しいものじゃないわ」


 レモングラスは寒くなければどんな土地でも根付くことができた、はず。精油だって、乾かしたものだって、たいていの薬草屋や、場合によってはお茶としても手に入るものだ。父は様々な薬草を持っているし、レモングラスは特別の効能を持っているわけではない。

 わたしが考えていることはわかっているのだろう。父はゆるやかにかぶりを振った。


「いや。南の国で買ったんだ。この場合、そこが重要だ」

「……南の国の人なんて、いたかしら」

「お前はほとんどベース・ヴェルトに来ないから、仕方ない。ベース・ノアールに、十三歳の女の子がいるはずだ」

「ああ……」


 ベース・ノアールは黒の旗の立つテントのことだった。……もう助けられない、患者がそこに入る。

 左腕がほとんど吹き飛んでしまった少女を思い出す。爆発で吹き飛んできた瓦礫の当たりどころがあまりにも悪くて、左肺と心ノ臓の一部が損傷していた。見つけたときにはもう虫の息で―――


「ハル」

「はい」


 父の瞳がわたしを覗き込む。


「そうか、お前が見つけたのだったね。いい処置だった」

「……ありがと。で、どうして南の国の人だなんて分かったの。あの子、喋れないじゃない……」

「母親は生きている」


 酷なことだと、目を伏せる。


「きっと、今日中にベース・ノアールのベッドがひとつ空くだろう。私には、悲嘆にくれたひとりの患者がいるだろう。分かっているのなら、事前に準備をするのが良いだろう」

「ええ、そうね。わたしもそう思う」


 ぱっと立ち上がる。


「ごめんねお父さん、わたし、リーダイに呼ばれてるから」

「行ってらっしゃい」


 ベースのあいだを抜けて、今度こそ調理場に向かう。白い服と虹色の髪。美しいような。どこか嘘のような。

 ハール、とわたしの名前を呼ぶ声がした。


「はーい! 遅くなっちゃった。ごめんね」

「いいんだよ。いま忙しかろう」

「んーん。ロジンにぜんぶ任せてきた」


 喉を震わせて、リーダイが笑う。わたしの二つ上の姉や。頭の高い位置で結んだ色鮮やかな髪の尾の根元で、銀の髪留めが光っている。


「ロジンはもうハルの尻に敷かれてるのか。はやすぎやしないか」

「そんなことしてないわ、わたし。でも、ロジンの方がちびっこ達見るのは得意なんだもん。効率いいのはロジンが見る方。で、わたしになんの用?」


 リーダイが、穀物の入った袋を渡す。片の手のひらですくえる程度だ。


「うん」


 をわざわざ呼ぶって、そういうことだから。木のまな板に何種類も混じった穀物をざらざら置いて、手袋を外す。

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