ハル・シオンと二つ星 -7
「ハルは、嫌いな食べ物はある?」
涙にむくんだ脳みその中で、何度かキトロの言葉を咀嚼する。嫌いな食べ物?
「ないわ。たいていのものは、おいしいと思う」
「それならよかった」
骨の目立つ、大きな手がわたしの方に伸ばされたので、首を振る。人との距離感が近い人なんだろう。
「だめよ、キトロ。気持ちだけもらうわ」
「……触るなっていうのは、こういうことか」
ええ、と返事をする。薄暗くなった部屋の中で、いやにさみしく響いた。キトロが窓の方を向く。夕焼けの端っこだけ残っている。もう十分もあれば、すっかり日も落ちて、夜になる。
「ハルに触れる人は、だれもいないの?」
「許嫁だけ……」
枯れたと思った涙が再びあふれる。なんてかわいそうなんだろう。こんな、人間に縛られる人生を選んだ、わたしの許嫁は!
「わたしの毒を、飲ませて、許嫁には耐性をつけたわ……」
「そう」
「かわいそうな人。わたしに触れるようになったって、なんにもならないのに。子どもは作れない。旅団の団長の伴侶なんて、忙しいばかりで、なんにも得はないのよ」
わたしの父が例外なだけだ。自分の好きなことばっかり。あれでも、旅団きっての薬師なので許されているだけで、煩雑な仕事は母の兄がすべて請け負っている。
ロジンから、なにもかも奪ってばかりだ。
「キトロは、許嫁っている?」
「いや……そんなもの、持っている人の方が少ないんじゃないか。それも、まだ君のような年齢で」
「そうよね。でも、旅団の直系は許嫁を持つものだから」
大きく息をつく。キトロが、わたしから視線をそらしたままなので助かったと思う。わたしも、どんどん暗くなっていく窓の外を見つめる。
「わたしは、特に、総領娘だから。本当はうんとはやく許嫁を決めるものなの。わたしの姉やたちは、五歳の頃には決まってたって聞いたわ」
「そんなにはやく?」
「ええ。でも、わたしにはいい年頃の子がいなくて。それに、この体でしょう。いろんなことが決まらなくて」
そもそも総領娘に決まるのも遅かった。誰よりも濃い血筋を持って、魔女という祝福を受けたわたしを総領娘にすべきだという人たちと、もうリーダイに決まっているのだから、という人たちの間で、わたしもリーダイも揉みくちゃにされたものだ。
そして最終的に、リーダイよりたまたまちょっとだけ特別な生まれをしただけのわたしが選ばれた。
十にもならない子どもをつかまえて、なんて馬鹿馬鹿しく騒いでいたのだろう、と今更ながら思う。なにも分からない子どもだから、と目の前で信じられないような言葉を吐かれたこともある。
「十歳の誕生日に、わたしの前に五人の男の子が並んだわ。あちこち散らばってる旅団から、同じ歳の子をかき集めたの。その時、たまたま織物の旅商人の人たちと一緒にいたの。旅商人を率いている人が、たまたまそれを見て、自分の息子を連れてきたわ。そちらの娘さんと同じ歳ですから、許嫁候補にどうぞって」
「……うん」
「趣味が悪いって言ってもいいのよ」
キトロがちらっとこちらを見て、苦く笑った。まるで物のように扱われたわたしたち。
「その織物商人の息子を、わたしは選んで……」
わたしが、選んだ。
彼の人生を。
「わたしの毒を飲んでも、あまり作用が出なかったのが、六人のうちの半分。ひとりは死んで、二人は中毒症状が出て……」
「ハル」
骨ばった手を握り合わせて、キトロがうめくようにわたしを呼ぶ。
「ハル。本当に、君に少しも触れてはいけない?」
「……髪の毛なら、大丈夫」
キトロが、ベッドの上に散らばったわたしの髪を撫でた。夜に沈んでいく部屋の中じゃ、表情は見えない。
「君みたいな子どもが、どうしてそんなことを経験しなくちゃいけないんだ。抱きしめることもできないなんて」
「……終わったことよ」
肘をついて起き上がる。大きく息をついた。くらくらする。くしゃくしゃになった髪を、キトロがそっとすいてくれた。人に髪を触られてるのは慣れてるつもりだったけど、初対面の人だといやに緊張した。
両手を祈るときの形に組み合わせる。懺悔のよう。カーテンが手招きするように揺れていた。
「でも、仕方ないことだから。わたしは、そういう生まれなのよ。どんな生まれ育ちでも苦しみはあるもの。わたしの人生は、こういうものだったというだけ」
「そうだとしても、僕は……」
キトロが言い淀んでいるあいだに立ち上がる。わたしの髪をすいていてくれた手が宙でさまよっているのはわかっていたけど。分厚い靴下の下で、板張りの床がきしむ。
「それにしても、もうすっかり日が落ちたわね。何時くらいかしら」
「……十八時すぎたくらいかな。夕飯にしよう」
ぱちんとベッドの横のランプシェードがついた。ガスのにおいがかすかにする。暖色の火に、藍色と紫のガラスが反射する。花の模様だろう。見たことのない花だ。
キトロが、背を向けたまま目の下を強くぬぐっている。やさしい人ね、と胸中だけでつぶやく。泣かなくてもいいのだ。こんな初めて会った人のために。キトロが、ベッドの横の棚に入っている籠から、布のスリッパと燭台と蝋燭を出した。
スリッパだけ受け取って履く。キトロが燭台を持って歩いていくのについて行く。廊下のランプひとつひとつに灯りを灯していく。
「夕飯?」
「うん。簡単なものだけど」
外とつながるドアに、一番近い部屋に入る。わたしがいた部屋とは違って、生活感のあるちいさな部屋だ。真ん中に四角のテーブルと二脚の椅子。あちこちにランプと蝋燭が置いてあって、こうこうと光っていた。壁にちいさな絵がたくさん飾ってある。
窓辺に、大きな机がある。たくさんの紙と、インクの瓶、ガラスの入れ物に封蝋が詰まっている。そして、手招きするようにレースのカーテンが揺れる。
「座って。ごめんね、料理ができないものだから、こんなものしか出せなくて」
スライスしたパンと、サラミが乗ったお皿が真ん中の机に置かれた。向かい合って椅子に座る。両手を組み合わせて、額につける。小さな十字が、大きさに見合ったかすかな金属音を立てる。
「糧に感謝します」
「堅苦しいのはいらないって。食べよう」
ガラスの取り皿にパンとサラミを半分ずつにわける。ライ麦の生地にクルミが入ってるパンに、サラミソーセージを挟む。大きく口を開けてかぶりつく。パンの香ばしさと、サラミの塩と脂の味が口の中に広がる。
炭水化物と動物性タンパク質、塩。一口食べるごとにエネルギーがむくむくと湧いてくる。パンからはみ出たサラミを指でつまんで、口の中に入れる。
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