ハル・シオンと凍り野の底 -23
「……おれは、なにがあったか、まだよくわかってないけど」
止まっていた息を吐く。ロジンがあえてゆっくり話す声を聞いたら、少し落ち着くような気がした。
「大丈夫だよ。ハル。ハルなら大丈夫」
「ん……」
「おれは、テトと一緒にいたらいいかな。少しは安心する?」
「うん。ごめんなさい、わたし、いま、あのね、混乱しているというか、焦ってて」
でも、と目をつぶる。風の音がする。
「テトの方がきっとたくさん傷ついてる。でも、わたしが行かないと」
「うん、わかってる。ちゃんと見ておくから、大丈夫だよ。……ああ、院長かな。灯りが」
頬をはたいたら、ぱすんと間抜けな音がした。ホウキとカバンを抱えて、扉を開く。院長の、派手な色合いのコートが雪まみれだった。いつも穏やかに笑っている口がぎゅっとしかめられている。ロジンが彼のホウキを受け取って、金具とロープを装着し始める。
「こんな深夜にごめんなさい」
「大変なことが起きたようですね、ハルさん。少ししか話しは聞いていませんが」
「ええ」
「旅芸人のところですね。準備はできているようですし、行きましょうか。街の方への連絡と調整は、長様がしてくださるようなので、とにかく私たちはその旅芸人がいる場所に急ぎましょう。ロジンさん、ホウキをありがとう」
いえ、とロジンが短く答える。外に出たら、びょうびょう風が吹いていた。これは難儀しそうだった。行かねば。
「道は私が知っているので、先導します。行きましょう」
ケープのフードを被って、院長と飛び立つ。院長の赤い外套と、縁にされたガラス加工の反射を頼りにホウキを飛ばす。横殴りの風のせいで体勢が崩れそうになる。視界が思ったより悪い。街の道に沿って設置してある街灯だけが頼りだ。
この街で暮らして長い院長と一緒に、という母の判断は正しかった。きっとわたしだけじゃうっかり遭難しかけていただろう。ラジオはガ行とザ行の雑音を垂れ流している。なにか通信があっても、この風じゃあ聞き取れないだろうけど。
一度街の中心まで出て、こまごました建物が並ぶ道に入る。宿泊施設がいくつかあるので、その中のどこかに泊っているのかもしれない。寒さで歯がカチカチいっている。院長がホウキの速度を落とした。少し顔をあげて、あたりを見渡す。なにか、直感に触れるものはないだろうか。こんなに風が強ければ、血のにおいは紛れてしまう。
路地裏に入ってすぐの建物の前に、院長が着地した。二階建ての、石造りの建物だ。ああ、と息を吐く。ここです、と、言われれば。ここだと思う。カバンを抱えあげる。院長が重たい木製のドアを開く。
「こんばんは、どなたかいますか」
一階が食事のできる店で、二階で人を宿泊させる、よくある宿泊施設だ。玄関の真向いのカウンターで、店員らしき若い男が伏して眠っている。魔法の残滓が残っていた。店員のまぶたをひっくり返して、ペンライトで瞳孔の収縮を確認する。呼吸もおかしくないし、ただ眠らされただけだろう。もうこのまま寝ててもらうことにして、階段を上がる。
深夜とはいえ、あまりにも物音がしない。みんな眠らされているのか、死んでいるのか。自分の心臓がどくどく鳴っている。一番奥の部屋の扉を、ノックもせずに開く。
石造りの壁。十数人が雑魚寝できるようにだろう、奥に寝具がごちゃごちゃ並んでいる。机の上や床に酒の瓶がごろごろ転がっていた。同じく、人も。血のにおいがむせかえるようだ。顔がくしゃくしゃに歪むのがわかった。
カバンを唯一きれいなままになっている扉の前の床に置く。十人はいないだろう。みんな血まみれだ。一番近くの人をそっとひっくり返す。喉に深い傷が一本。目を大きく見開いていた。院長がすたすた中に入って、倒れている人を確認している。膝から力が抜けそうになるのを叱咤して立ち上がる。
ひとり、ふたり、さんにん、と数えながら、全員の生死を確認する。どうしようもないほど全員死んでいた。喉にうんと深い傷。瞳孔の収縮と、脈と呼吸の確認と。ゴム手袋がすぐに真っ赤になった。
「ハルさん、何人ですか」
「……四人です」
「それじゃあ、私が見た人数と合わせて八名ですね。……即死でしょう。これ以上この部屋のものを触るのは、よくないでしょうから、出ましょう」
「はい」
「他の部屋も確認してきてもらってもいいでしょうか。今頃長様が、街の長様に連絡をしているはずなので、しばらくしたら警衛団が到着するでしょう。ラジオをお貸しください」
黙ってラジオを差し出す。ぱちりとスイッチを押して、院長が状況を報告し始めるのを背後で聞きながら、他の部屋をひとつひとつ改める。隣の部屋には、荷物だけ置いてあった。この二部屋はそもそも人を泊めていないらしく、シーツもかかっていないベッドが置いてあるだけだ。床板がぎしぎし鳴り響いている。
端の部屋まで確認をして、背後を振り返ったら、血の足跡がずっと続いていた。なんだか、地面がふわふわして、現実味がまったくない。涙が出そうな気がしたし、眼球が痛いほど乾いているような気もした。転ばないようにゆっくり歩いて、院長の元まで戻る。
「他には誰もいないわ。店の人も、一階で寝ていたあの人だけみたい」
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