ハル・シオンと凍り野の底 -9
作りかけのものでも、構わないはずだ。刺繍糸を仕舞っている箱の横に置いてある縫いかけの布をそっと持つ。手のひらの幅くらいの分厚い深緑色の布だ。暗い緑色のツタが細かく縫われている。わたしには見当がつかない手間暇だった。
「これはなにに使うの、ヤナ」
「雪解けの祭りのときのドレスにしようかと思って。あなたのくれた布をドレスにして、こちらをベルトにしたらきっと素敵だと思って」
あかぎれもささくれもない、細い指がそっと刺繍糸を撫でた。赤に薄桃、黄、橙、青。金銀に輝くものもある。色の薄いの濃いの、糸の質感も違うのから、ヤナがひとつひとつ選び出して使用しているのだろう。
「ツタを縫い終わったら、いろんな形の花を抜いとるつもりなの。ハルのくれた布はうんと上等だったから、あちらは、飾りはほんの少しで充分ね。ドレス本体はシンプルにして、その分ベルトはいろいろと飾るのがきっと一番いいわ」
「そう。ヤナの見立てなら確かね」
「ありがとう。どうせならお母さまと姉様にも、なにか揃いのものを準備したいけれど、あまりいい布が手に入らなくて」
布ならば、とロジンの方を見る。心得たようにロジンがうなずく。
「どんな布が欲しいんですか? よろしければ、おれの家族に連絡を取ってみましょうか」
「まあ……迷惑じゃないかしら」
「うちの家族でよろしければ、喜んで用立てますよ。お気に召すものをご提案できるかはわかりませんし、時間がかかるかもしれませんが……ベルトにできる大きさの布なら、鳥で運べますから、とりあえずお話しだけでも聞かせてください」
ヤナがうんうんうなり出したのを、笑いながら眺める。きっと時間がかかるだろう。彼女は優柔不断な子なので。机の上の皿に並んだクッキーを一枚ほおばる。干したベリーが混ざっている。
そうだと思いついて、バスケットを漁る。ワインとフルーツ、香料の瓶と、小さな鍋を取り出す。
「ヤナ、火とコップを借りるわ。あなたはそのまま悩んでいてちょうだい」
「今から作ってくれるの?」
「ええ。ミルクは飲み終わった? 考え事しながら飲み終わったら、きっとちょうどおいしいホットワインができているわ」
ヤナの部屋には、少しの料理ができるように金網があるのでそれを借りる。火かき棒で熾火になっている薪を集めて、その上に金網を設置する。清潔なガーゼに包んだシナモン、スターアニス、グローブを鍋に入れて、赤いワインを注ぐ。べつに難しい料理というわけではない。このまましっかり温めてから、砂糖漬けにしたオレンジを入れたら終わりだ。
ホットワインは、暖炉で作ってすぐに飲むのが一番おいしい、というのがわたしの持論だった。はちみつは個人の自由で入れるのがいいだろう。ぱちりと火花が散る。
このあたりでは、ワインはあまり見ないように思う。そもそも葡萄が育つような土壌でもないのだろう。ヤギの乳を発酵させた乳酒が、おおむねすべての家庭で見かけるもので、蒸留酒はどちらかというと気付薬のような扱いか、少し高級な嗜好品とされている。わたしたちも、このあたりの山で事故が起きたり、行方不明者が出たりしたら、ウィスキーをひと瓶は持って出発する。
鍋の底からふつふつと小さな気泡が上がってきたので、火から鍋をあげる。ロジンが鍋敷きを出してくれたのでその上に置く。香料のにおいが立ちのぼる。鍋の中をのぞき込んで、ヤナが笑った。
「おいしそう! ありがとう、ハル」
「どういたしまして。お口に合えばいいんだけど」
おたまですくって、各自のコップに注ぐ。少し息を吹きかけてそっとすする。ぼわっと喉と胃のあたりが熱くなる。おいしい、と三人同時に口に出したので、顔を見合わせてから笑ってしまった。
ああおかしい、とヤナが目じりをぬぐいながら言う。
「あたし、こんなに笑ったのは久しぶりよ! あなたたちと話せてよかった」
「まあ。そしたら、わたしたち、また来るわ」
「楽しみにしてる」
ヤナが笑う。上等な服を着て、水仕事を知らない手をして、細い腰を持って、古くて大きな屋敷の一室で笑っている彼女は、幸せそうに見えるだろう。生活に不必要な飾りの中で暮らしているのは、この厳しい冬がくる街の中では特異だろう。
わたしだけは、理解したいと思った。あまりにも自由が少ない彼女のことは。この静かなお屋敷の中で、笑い声をあげ続けると決めた彼女のことを。わたしの体を知りながら、はじめましてと手を差し出してくれたのは、彼女だけだったので。
*
お昼ご飯をいただいて、お屋敷から出て行った。思ったより悪い時間じゃなかった。行きより軽くなったバスケットを抱えて、雪が降る街をロジンと並んで歩く。今日は風がひどくないので、屋台が出ている。温かい食べ物と、色鮮やかな織物、糸が並んでいる。
イーニーの街は標高が高くて風が強いので、あまりホウキは使われない。馬や牛が主な移動手段だ。こんな寒い中ホウキで飛ぶなんてとんでもないので、今日は置いてきている。歩くと沈黙が重たくなるので、少し苦手だけど。ふとロジンが足を止めた。
「寄り道しよう、ハル」
「いいけど……」
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