ハル・シオンと白の道 -3
父親はわたしに触れなかった。ただ、じっと見られている。似ているとよく言われる、父親の瞳だった。
「お前は昔から、ストレスが溜まると頭痛と胃腸がひどくなってしまうからね。でも、ハルはきっとどこでも生きていけるだろうから」
「……あのね、」
薄茶色の油紙にそっと触れる。ランプの火が揺れている。あのね、と息が詰まりながら、声を出す。ずっと怖くて、聞けなかったことが、いくつもいくつもあって、わたしの胸の中でゴロゴロと転がっている。
「父さんは、母さんのこと、好き?」
「不思議なことを聞くね。もちろんだ」
「わたしのことは?」
「好きだよ。お前の母さんも、当然、そうだ」
「だって、ずっと、ふたりとも話してないじゃない」
「手紙なら、たまにするけどね」
え? と素っ頓狂な声が出た。手紙なんて、なに言ってるんだろう。
「週に一回くらいだけど」
「だって、……そんな話し、聞いたことない」
「最近のことだからね」
「……」
「ずっと父さんと母さんは、喧嘩していたし、話しもしてなかったけど、べつに嫌い合っていたわけではなくて。……いや、母さんの方はわからないけど。でも、もう一度話そうと言ったのは、母さんの方だ」
裸足でやってきたせいで、つま先が冷え込んでいる。薬のにおいを吸い込む。
「遅すぎるわ」
「そうだね」
「……わたしのことを、もっと大事に思ってたら」
あのね、ともう一度言う。あのね、父さん、母さん。わたしは。
もうずっと手足も頭も重たくて仕方なかったんだけど。
「わたしのこと、もう少し思ってくれていたら、よかったのに。手遅れだわ」
「うん」
「旅団から抜けるって手紙を、勝手にカバンに入れたの。ごめんなさい」
「わかった。よさそうなところでみんなに渡しておくから」
「よろしくね。じゃあね。さようなら」
お元気でとは、言えなかった。お礼も。大げさな音を立てる薬の包みをつかんで、大股で薬局から出ていく。まだ廊下の蝋燭に火はついていない。足早に廊下を歩いて、自室の前まで戻る。そっと扉を開いて、部屋の中に入る。
扉にそっともたれて、低い天井を見上げる。いろんなことを思い出す。目をぎゅっとつむって、ぐちゃぐちゃに荒れそうな頭の中をなだめる。本当は、あの場で父にたくさんのことを言わないといけなかったのかもしれない。旅団から抜けるので、いまは手一杯で、なにも思いつかなかった。
「……ねえさん……?」
「うん、なあに?」
テトのおぼろげな声にこたえる。机の上に薬の包みを置いたら、がさっと大きな音がした。ベッドのふちに腰かけて、テトの頭を撫でる。明確に覚醒したわけではないらしい。うとうととした顔をしている。
しばらく黙って頭を撫でていたら、そのまま目をつむって寝息をたて始めた。まだ数時間はあるので、わたしももうひと眠りしようか迷ってみる。テトとは話せたし、父には少し言いたいことを言えたし。
ここ数日でやりたいことをすべて終えられたような気がする。いろんな我慢していたことを、突き放したり、捨てたりして、嫌な顔をたくさんされたけど、べつにどうでもよかった。
今日わたしがいなくなったら、ああだからあんな態度をとってたのかと、みんなが訳知り顔に言うのだろう。それすらどうでもよかった。あとの心配はテトのことと、次の総領娘のことだった。
ちいさくため息をつく。もうこれ以上誰にも、なにも言わないつもりだった。父にばれてしまったことがそもそも想定外なのだ。ロジンにも、リーダイにも、チオラにも。言ってしまったら、彼らにも責任を背負わせてしまう。わたしひとりの責任で、出て行かなければならなかった。
後のことを考えたら、せめてリーダイには一言言った方がいいのはわかっていた。ただそれが、旅団のことを考えてのことなのか、リーダイに甘えたいだけなのかが、わからなかった。
まだ少し、旅団の中でいたいという気持ちも、残っている。
愛着が。捧げた時間が。与えられたものが。
あなたのおかげだと泣いてお礼を言った、患者さんの言葉が。
あなたならできると言われたのは確かに重荷だったけど、嬉しかったのだ。
音を立てないように気をつけながら着替える。ブラウスを着て、ジャンパースカートを上に重ねて、ボタンと留める。少し分厚い靴下を履いて、ネックレスをかけて。新しい木靴にはまだ足を入れずに、室内履きを履く。部屋から出て、廊下をゆっくり通る。
「……会ったら、ね」
世界に任せよう。
数か月を過ごした診療所の中をさまよう。朝ごはんの準備の時間になったら、戻ろうと決める。それまでに、リーダイと会うかどうか。わたしかリーダイに必要なら、会える。
会えるはずもないことは、わかっている。こんな早朝に誰かが起きているはずがないのだから。患者さんの寝室が並ぶ通りを抜けて、詰め所を気付かれないようにそっと通り過ぎる。絶対に誰もいないであろう、待合室まで向かう。
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