ハル・シオンと身中の毒 -10

 服の中からネックレスを取り出して、両手で握る。今日一日きっと忙しくて、つらいことがたくさんある。ヤナのために、まだ祈れない。彼女のためだったら、腕いっぱいに花を集められるけど。まだ。

 両頬をはたく。扉をそっと開いて、うんと寒い廊下に出る。あまり人の気配はしなかった。そもそもこの部屋がお屋敷のどのあたりなのかも見当がついていないのだ。どちらに歩き出そうか迷っていたら、かすかに誰かの足音が聞こえてきた。助かったと思って、あの、と声を出す。

 廊下の角から、媼が顔を出す。ラウラさん、だったはずだ。手には洗面器を持っている。


「あの、すみません、顔を洗いたくて……」

「おはようございます。ちょうどよかったです、こちらをお使いくださいね」


 洗面器とタオルを差し出される。受け取ってから、しわだらけの顔が真っ青なことに気が付いた。なにか言うべきなのか迷ってしまって、動きも声も固まる。ラウラさんがくしゃっと笑った。


「よく眠れましたかねえ」

「ええ、はい、あの、ご迷惑をおかけしてしまって」

「大丈夫ですよ。朝ごはんはまだ遅くなりますが、こちらのお部屋に持ってきますから、待っていてくださいね。そのときに洗面道具をもらいますから」

「すみません」

「いいんですよ。さあ、どうぞ」


 頭を下げて、ラウラさんが立ち去る。洗面器の中の水は、あたたかくて湯気が立っている。寝室の中で洗面をするのは、水場には立ち入らない、高貴な人の振る舞いだ。それか患者か。

 どう考えたって前者のための道具だろうと、分厚いタオルや、わざわざ保温の魔法がかけられている洗面器を眺めながら思う。部屋に入って、タオルを濡らして固く絞る。顔を強く拭う。

 ロジンの肩をそっと叩いて起こす。おはようと短く挨拶を交わして、洗面道具を渡す。ロジンが顔を洗って、隣の部屋で着替えているあいだに寝具を整えたり、あれこれ広げてしまったものを片付ける。

 わたしと同じく制服を着たロジンが戻ってくる。もう甘えることはできない。わたしたちは旅団の一員で、わたしは旅団の総領娘だった。


「よく眠れた?」

「うん。いいソファだった」

「よかった。朝ごはんはもう少しかかるって。……髪を整えてもらってもいい?」

「もちろん」


 椅子に座り直す。背後に立ったロジンが、髪の毛をそっと梳く。昨日なにも手入れをしないで、しかもほどいたまま寝てしまったのでひどいことになってそうだ。何度も丁寧に櫛を通されている。

 昨日あったことを何度か頭の中でなぞる。説明を求められるはずだ。泣いてはいけない。動揺してはいけない。声を震わせてはいけない。どもってはいけない。曖昧な言い方はよくないけど、簡単に断定するのは控えるべきだ。事実を適切に説明しなければならない。

 髪をすべてまとめてシニヨンにして、横髪もおくれ毛も一切出てこないように、ピンを刺して、ワックスをつける。手鏡を渡された。ひどい顔色をした自分が、髪と洋服だけはきっちり整えているのが映る。


「これでよさそう?」

「うん。ありがとう」


 窓を大きく開けたらいいのに。手の届かない高い位置に、小さな窓がひとつあるだけだった。手遊びにネックレスを撫でながら、分厚い窓ガラスを眺める。目をつむる。口だけ開く。


「着替え、ありがとう。いつの間に持ってきてくれたの?」

「チオラから、……わりとすぐに。もしかしたらお屋敷に泊まるかもしれないから、おれの分と、ハルの分をって」

「そう……」

「あと、テトが」


 ぱちりと目を開く。ソファに座ったロジンも、体を少しひねって窓の方を見上げていた。


「テトが、ごめんなさいって、言って」

「……うん」

「わたしはもう平気だから、気にしないでくださいって」


 自分の視線が下に落ちる。絨毯にすらツル薔薇の模様が描かれていた。古いのもなのだろう。模様は少しぼけていて、端は擦り切れている。ネックレスを握りしめたら、四方に出ている十字が手のひらに刺さった。


「……わたしは」

「うん」

「あの子たちは、そんなことは言わないで、大きくなってほしかったの」


 頼りない保護者だと、わかっていても。なにもかも足りていない、わたしなのにって、いつも思っていても。ロジンがこちらを見ている。


「でも、結局、わたしがあの子たちにそういうことを言わせてばかりだわ」

「それは」

「あの子たちが信頼してるのは、わたしだけって言われたわ」

「……そうだね」

「もっと頑張れたらよかったのにって。……わたしがわたしじゃなかったら、もっと、なにかが、上手くいってたような、そんな気がしてならない」


 自分の目が痛いほど乾いている。昨日で自分の涙は枯れてしまったのだと思った。ロジンが立ち上がってわたしの前まで来て、握りしめていた両手をほどいた。ネックレスも取って、机の上に置く。


「……ハル、あのね」


 そっとわたしの目の前に膝をつく。かさかさの両手が、わたしの手を握る。


「誰もそんなことをハルに言うことはない。あのね、ハルがこれ以上がんばったら、おれはたぶん泣いてしまうだろうね」

「……」

「ずっと、ハルは走っていて、もう手が届かないところに行ってしまいそうだ。……がんばってるよ。ずっと一生懸命だよ。でも、おれは、それを見るたびにつらいなあって思う。休んだらいいのに。サボればいいのに。もういいだろって、何度も言いかけてた。でも、ハルの努力は否定したくないのと」


 手を払おうかしばし迷う。なんだか心が弱るような気がしてならなかった。


「ハルがテトたちに思っているようなことを、おれがハルに思っているって、ハルが気付いたら、どう思うんだろうって、ずっと考えていた」

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