第十一歌 いまも炎に焼かれたままで・2

 その日からシャルルは、どうすれば「勝手に死ねる」かばかり考えるようになった。

 母は変わらず優しく、シャルルを邪魔者扱いなどしなかったが、「食糧探し」に行くときの母はシャルルの目にも分かるほど浮わついていた。

 老婆の言ったことは本当だ。やはり自分は、母を自由にするために死ぬべきなのだと思った。

 一番手軽で簡単なのは、台所のナイフで自分を刺すことだ。シャルルにとって、死ぬのはたいして怖くなかった。たぶんすごく痛いのだろうが、母のためなら我慢できると思った。それに、もう二度と熱を出して苦しむこともないのだろうし、死んだ人は天国に行ってずっと幸せに暮らすのだと、父が言っていた。天国に行けば父にまた会える。今度こそ、竪琴を教えてもらえる。

 だが、幼い息子が自ら命を絶ったとなれば、周りの大人はきっとあの老婆のように母を責めるに違いない。死ぬなら不慮の事故を装わねばならない。息子を失って気の毒だと、母が村人に慰めてもらえる死に方でなければ意味がない。

 いい死に方は、なかなか思い浮かばなかった。

 ある夏の日のこと、あまりにも思い悩みすぎたせいか、シャルルはひどい高熱を出した。まるで頭を殴られ続けているかのような痛みに加え、息をするたびにぜえぜえと胸が鳴った。いつもにも増して苦しく、シャルルの意識は朦朧とした。

「食糧探し」から帰ってきた母が、珍しく医者から薬をもらってきた。熱冷ましだという。黄土色の粉末はとても苦くて、後から後から唾が湧いてきたが、涙目になりつつもどうにか飲み下した。

 途端にシャルルは眠くなった。そのまま眠り込んでしまっていたなら、彼は死んでいたはずだ。しかし、シャルルは宵の口に目を覚ましてしまった。

 ――熱いなあ。熱冷ましを飲んだはずなのに、ちっとも効いてないや。

 しかしそれは、自分の体温ではなかったのだ。

 瞼越しに突き刺してくる光が、シャルルを叩き起こした。家が燃えていた。炎は乾いた木造の柱や梁を伝って天井から火の粉を降らし、ベッドを焦がしていた。

 身体の苦しさを忘れて、シャルルは飛び起きた。最初に心配したのは、自分ではなく母の身であった。

「母さん!」

 小さな家だから、母の姿はすぐに見つかった。

 棚の前で、母は父の形見の竪琴を抱きかかえていた。シャルルの顔を見ると驚き、なぜか怯えたような表情に変わった。足元には大きな布に包まれた家財道具がある。

「母さん、荷物なんてまとめてる場合じゃないよ! 早く逃げよう!」

 シャルルが母の手を引こうとしたそのとき、母は強く手を振り払った。

 なんで? 疑問を口にする前に、シャルルは床へ仰向けに倒れた。倒れるときに打った頭がじんと痺れる。母に胸を突き飛ばされたのだと、遅れて気づいた。

「待って、母さん」

 シャルルが起き上がったときには、母はもうドアを開けて外へ出ようとしていた。

「助けて! 母さん、僕を置いて行かないでよ!」

 シャルルは必死で叫んだが、ドアは無情にも目の前で閉じた。外側から鍵がかちゃりと掛けられる音がして、ドアを叩いて助けを求めようとしたシャルルの心を挫いた。

「母さん……」

 その瞬間に、シャルルはすべてを理解した。この火事は、母が仕組んだ「不幸な事故」なのだと。

 死ぬのは怖くないと思っていたはずなのに、いざとなると身体が震えた。いや、自ら死ぬのなら怖くなかったはずだ。怖いのは、大好きな母に殺されることであった。

 燃え盛る炎の音が、外の物音を遮断していた。村人たちは集まっているだろうか。

 シャルルは「ここから逃げなくちゃ」と思うと同時に、誰にも見つかってはいけないと思った。母は不幸な事故で息子を亡くさなければ、幸せになれないのだ。

 死に物狂いで燃える板壁に体当たりして壊し、どうにかシャルルは家の裏手に逃げ出した。村人たちには会わなかった。そのまま夢中で、真っ暗で道もない地面を蹴って走った。

「息子がまだ中にいるの! シャルルを助けて!」

 半狂乱で泣き叫ぶ母の空芝居そらしばいが遠くに聞こえた。聞きたくなかった。

 走り疲れてようやく涙を流したとき、左の頬だけがいやにずきずき痛むことに気づいた。顔の左半面が焼け爛れてしまっていることを知ったのは、翌朝辿り着いた小川で自分の顔を映したときであった。

 シャルルは死んだのだ。そこにいるだけで必要とされ、愛される美しい少年は。


* * *


 長い間歩き続け、シャルルは帝都ギオザに辿り着いた。ロザールの貧民街に身を寄せて間もなく、派手に着飾った中年女に声をかけられた。

「こんな子どもが可哀想に。うちへおいで。寝るところも食べるところも、何の心配もいらないよ」

 産みの母にさえ裏切られたシャルルが、見知らぬ女を容易に信じられる道理はなかったが、貧民街の荒くれ男たちの中で生存競争に勝てるとは思えない。どんな家にせよ、貧民街よりはましなはずだ。シャルルは迷わずその手を取った。

 女はロザールで高級娼館を営んでいた。シャルルは小間使いとして働く傍ら、女主人が雇った音楽教師から娼婦たちと一緒に竪琴と歌を教えてもらえた。

 父の竪琴とは比べるべくもない安物だが、自分用の竪琴を与えてもらえたことが嬉しくて、シャルルは夢中になって練習した。父譲りの才能が開花したのか、一年と立たないうちに娼館一の名手になった。

 もうひとつ、シャルルが習ったことがある。剣だ。娼館の用心棒たちが、面白がってシャルルに稽古をつけてくれた。王侯貴族たちが習うような、行儀の良い剣技ではない。相手を確実に仕留めるための技術だ。自分よりもはるかに身体の大きい用心棒たちとの稽古は、着実にシャルルを鍛えていた。

 そうして初めの二年半は平和に過ぎた。シャルルの声は少しずつ低くなって父に近づき、急激に背が伸びた。剣の稽古のおかげか、あるいは豊かな食事のおかげか、病弱だった身体も健康になり、以前のように熱を出すこともなくなっていた。

 ところが、シャルルの身体に男としての機能が目覚めたことを知られると、急に女主人から男娼として客を取ることを命じられた。

「僕には顔に醜い火傷がある。お客さんなんて取れるわけがないよ」

 シャルルは驚いて抗議したが、女主人はそれを否定した。

「お前みたいなのが好きなお客さんもいるんだよ。あんたは竪琴も歌も上手いし、いい商品になる」

「でも……」

 シャルルには何の経験もなく、客の悦ばせ方なんて知らない。何より、身体を売る仕事なんてやりたくなかった。

「心配いらない。これから私が手ほどきをしてあげるから。……さあ、おいで、シャルル」

 否を唱える権利はシャルルにはない。彼の平和は子どもだった日々とともに終わり、代わりに地獄が始まった。

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