第十三歌 月だけはすべてを知っている

第十三夜 月だけはすべてを知っている・1

 こんばんは。いよいよ今日が、最後の夜だ。

 もう会えないのかって? そんなことはない。私はいつもそばにいるよ。

 もしも私に会いたくなったときは、夜空の月を見上げてごらん。そこに私はいるよ。たとえ雲に隠されて見えなくても、ずっとあんたのことを見守っているからね。

 それじゃあ、始めるとしよう。

 覚えているかい? 私は最初に、この歌物語のことを「満月に導かれた人間たちの物語」だと言った。

 彼らがどんな結末を迎えるのか、どうか最後まで見届けておくれ。



   満ちて欠けることなき月はなし


   人の世もまた変わりつづける


   うつくしきふたりはいまいずこ


   月だけはすべてを知っている



 クロワ――ヨナディオが去ってから、満月は徐々に欠け始めた。

 宴から二日後、シャルルはいちおう軍務に復帰したが、屋敷に関する諸問題は解決していないままだ。屋敷は一から建て直すことに決まったものの、工事の間の仮住まいはまだ見つからない。一時的に帰らせている使用人たちの今後についても考えねばならない。ミゼルらが遺した襲撃の爪痕は、意外に深かった。

 唯一の救いはシャルルが普段から倹約家で、屋敷を新築できるだけの十分な蓄えがあることだ。被害の少なかった書斎の棚に金貨を貯め込んでいたのは幸いであった。

 城から帰った後、シャルルは毎日のように深夜まで書斎でペンを走らせている。そのときシトリューカも傍にいた。ほかに行ける部屋がないからではあるが、シャルルの身体が気遣わしくもあった。

「……少しくらい、休憩したほうがいいわ」

「不要」

 シャルルは机に視線を落としたままだったが、少なくともシトリューカを無視しはしなかった。

「あなたはすぐに『不要』と言うのですね。でも、不要なものが必要なときもありますよ」

「意味不明だ」

「例えば、ほら」

 シトリューカが指さした先を、シャルルも見た。棚に飾られた竪琴は、変わらず艶めいてその存在感を示している。

「人間が生きていくのに、歌は不要なはずです。それでも歌わずにいられないのは、やっぱり歌が必要だからじゃないかしら」

 シトリューカがシャルルに微笑みを向けると、彼は渋々竪琴を手に取った。

「あなたが、あんなに歌がお上手だとは知らなかったわ」

「娼館の客を喜ばせるために習わされたものだ。あの頃は必要不可欠だった」

 言いながらシャルルは座り、膝の上に竪琴を構えた。ひとつひとつ弦を弾き、糸巻きを回して微妙な調弦をする。昔覚えた正しい響きをいまでも覚えているのだ。それは彼にとって歌や竪琴が、単なる生活の手段以上のものであった証ではないか。

「シャルル、この国の曲を歌って。あなたの心が安らぐ歌を」

 シトリューカは夫の傍へ立ち、彼の奏でる音楽に耳を傾けた。

 しばしの沈黙の後、シャルルが選んだのは子守歌であった。短い歌の中に、シトリューカは幸福な少年の姿を見た気がした。

 あの襲撃の夜、魘されながら母に助けを求めていたシャルルの過去に、何があったのかは知らない。ただ分かるのは、かつては彼も純真な子どもであったということだけだ。

 もう一度、同じ歌を繰り返す。シトリューカも一緒に歌った。視線を交わしたとき、いつの間にかシャルルの火傷を不気味だと思わなくなっている自分に気がつく。手を伸ばして、赤く引きれた頬を撫でた。

 シャルルを許したつもりはなかった。それでもいまシトリューカは、不思議とこの男に惹かれていた。あんなに憎んでいたのになぜだろう。明日になれば後悔するかもしれないのに。

 目に見えぬ力に引かれて、シトリューカはシャルルへと顔を寄せる。竪琴の伴奏が途絶えた。鼻と鼻を擦り合い、額と額がふれ合った後、唇と唇が求め合おうとした、そのとき。

「大変です旦那様! ……あ、すみません……」

「……構わん。どうした」

 ノックも忘れて駆け込んできたレナンに、シャルルは言った。

「お城から緊急の召集です! これを……」

 レナンが持ってきた手紙を、シトリューカもともに見た。

 ――海より敵襲。敵はノルボーラ港から上陸、同港を瞬く間に占領し、すでに帝都ギオザへ向けて進軍を開始した模様。

 シャルルは立ち上がり、竪琴をシトリューカに預けた。その顔つきは一変し、大将軍のシャルル・ド=ヴァルカンに戻る。過去はどうあれ、それがいま彼が負う責務であった。

「シャルル……」

 シトリューカには竪琴を抱えたまま、夫の背を見送ることしかできなかった。


* * *


 深夜の召集に、議場の誰もが苛立っていた。しかも突如現れた敵の正体も分からず、帝都までの道程を守る砦も圧倒的な兵力を前になすすべなく陥落していると聞けば、焦りも上乗せされる。集まってくる情報はすべて絶望的なものばかりだ。敵がこの城へ上がり込むのも時間の問題であった。

「敵軍は魔道を用いていたとの噂もあります。みな丸腰かと思いきや、彼奴きゃつらが異国の呪文を唱えると、どこからともなく炎が立って襲いかかってくると」

「馬鹿な。有り得ん」

「それが本当だとしたら、剣と弓矢でどう戦えというのだ」

「いっそ降伏したほうが……」

 将軍たちがざわついていると、皇帝が机を叩いて声を張り上げた。

「たわけが! 何のための兵隊だ! 何のための将軍だ! 死んでも皇帝を守るのが、お前たちの務めではないのか!」

「仰せの通りであります」

 皇帝にいち早く同調したのは、第二将軍のザンチである。

「我らギオーク軍人は、皇帝陛下のためなら命など惜しくは……」

「黙れ、ザンチ。無策を忠義の建前で誤魔化すな」

 シャルルは鋭い声で遮った。みな言葉を失い息を呑んで、恐れながら大将軍を見つめる。

「聞き捨てなりませんな、ヴァルカン将軍。陛下へ忠を尽くすことが、建前だと仰るのか」

 そうだ、建前だ。シャルルにはザンチの本心が手に取るように分かる。彼はいまもウルグリアの将で、陛下に対する忠誠心など欠片も持ち合わせてはいない。あわよくば帝国が崩壊して祖国が復興すればよいと考えているはずだ。ザンチの思い通りにさせるわけにはいかない。

「我々が考えねばならぬのは、陛下とエリク皇太子殿下をお守りすることだ。無意味な抗戦など不要、和睦の道を探るべきである」

「和睦だと?」

 聞き咎めたのは、ザンチではなくギオン皇帝であった。

「……はい、陛下。敵はノルボーラを半日とかけずに陥落させるだけの戦力を持っています。その勢いを弱める手立ても時間もありません。それだけではない、これまでに武力で従えてきた国々も、この機に乗じて叛旗を翻すでしょう。そうなれば、遺憾ながらわが軍に陛下をお守りするだけの余力はございません」

 反乱軍は皇帝を許さないだろう。それならばあえて敵国に近づき、皇帝を庇護してもらったほうがましだ。

 皇帝に説きながらシャルルは考えた。自分にとっても、皇帝など大切ではないのだと。ただギオン・ド=ギオークその人が無事に生きながらえてほしいのだ。二十三年前にシャルルを地獄から救い出してくれた、無邪気で裏表のない青年に。

「私に、敵に対して膝を折れというのか」

「どうかご辛抱ください。御身と、皇太子殿下の御為おんためでございます」

 だが、シャルルの恩人はその提案を受け入れてはくれなかった。

「ならぬ。絶対にならぬ! 私はギオーク皇帝、リオラントの覇者であるぞ。敵に命乞いをするくらいなら、私は喜んで死を選ぶ!」

「愚かな!」

 叫んだ後で、シャルルはすぐに後悔した。

「シャルルよ、お前だけは、私のことを一度も『愚か』だと言わなんだのにな」

 それは絶対に言ってはならぬ言葉だったのだ。

 皇帝の表情に、寂しげな笑みが浮かんでいた。誰もがギオン皇帝のことを愚昧だと嗤い、呆れ、憎んだとしても、シャルルだけは味方でいるべきであった。なのに、いま帝国が最大の危機に瀕しているときに、シャルルは皇帝を突き放してしまった。

「下がれ、シャルル。お前を帝国軍から罷免する。私とともに戦う気のない将など、不要だ」

「陛下……!」

「達者でな」

 二人の近衛兵に促されて、シャルルは議場に背を向けざるを得なかった。

 シャルルには分かった。これはギオン皇帝の愛情なのだと。長年尽くしてくれたシャルルを生かすため、あえて将軍の任を解いたのだ。

 だがシャルルもまた、皇帝を深く愛している。たとえ無給の志願兵だとしても、最後まで皇帝に尽くす意志は変わらなかった。

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