第十三夜 月だけはすべてを知っている・2

 翌朝、シャルルは屋敷の全員を書斎へ集め、すべてを説明した。

 海の彼方から来た敵が迫っていること、皇帝の意に逆らって軍人を罷免されたこと、それでも自分自身は最後まで戦い抜くつもりであること。使用人は全員解雇せねばならないことを謝罪し、帝都は間もなく死地と化すであろうから、いますぐ荷物をまとめ、家族を連れてできるだけ南へ逃げよとも告げた。

 使用人たちには当座の糧として金貨を分け与えた。彼らはみなシャルルに深く頭を下げ、涙ながらに感謝と別れの言葉を述べて、ひとり、またひとりと去っていった。

「私は金貨なんか要らない」

 ディエナは目に涙をいっぱい溜めていた。家族の仇から受ける施しなど要らない、と強情に言って部屋へ逃げ込んでしまった。シャルルは後を追わず、書斎にはシトリューカとふたりきりになった。

「……あなたは、これからどこへ行くの?」

 シトリューカが尋ねた。いまやただの一市民でしかないシャルルは自由だ。しかし彼は戦いから逃げ出す自由ではなく、戦う自由を選んだ。

「北上して、フィーランで戦う」

「私は……どうすればいいの?」

「立派なものではないが、馬車を用意している」

「そんなことを言っているのではないわ。私は……」

 シトリューカは言葉に詰まってうつむいた。

 いまシャルルに感じている思いを、うまく言い表すことができない。ヨナディオに対して抱いていた熱い恋情とは違う。憎しみもいまだ消えきってはいない。それでも、彼と生きる人生を受け入れられるかもしれないと思い始めていた。強いて言えば、諦めに似ていた。

「シトリューカ」

 温かな腕が、シトリューカを包み込んだ。シャルルに抱きしめられるのはもう不快ではなかった。けれどもいま彼が囁くのは、別れの言葉以外には有り得なかった。

「貴女は、私の女神であった。……だがもう、自由だ」

 シャルルは微笑を浮かべかけてやめ、腕をほどいた。

 世間一般の妻ならば、去りゆく夫の背になりふり構わず追いすがり、引き留めるのであろう。あるいはシトリューカのように戦える女であれば、決死の覚悟で夫について行くのかもしれない。だがシトリューカにその衝動は起こらなかった。ただ彼が寒い戦地でひとりたおれるのかと思うと、胸が潰れるように切ない。それがシャルルに対する愛情の限界であった。

 シトリューカは必死で考えを巡らせた。いまや私も自由だ。会いたい人に会いに行ける。シャルルは馬車を用意してくれた。でもこのまま、サン=セヴァチェリンに帰るわけにはいかない。帝国すら存亡の危機に瀕しているいま、私にできることはまだあるだろうか。

 シトリューカの見上げる先には、シャルルが愛した美しい竪琴があった。


* * *


 その後、敵軍は怒濤のごとき進軍を見せ、次々に帝国領を占領していった。

 シャルルはフィーラン砦に辿り着き、数少ない志願兵のひとりとして敵を迎撃することになった。思えばここはシトリューカの献策によって守られた土地だ。どこの馬の骨とも分からぬ敵に、むざむざと蹂躙させるわけにはいかない。

 敵は間もなく現れ、戦闘が始まった。

 シャルルは最前線でいち早く敵と剣を交えることになった。暗い空に、いくつも敵の軍旗がたなびいている。紺と緑の縞模様は、リオラントのどの国のものでもない。容姿はリオラントの人間とさして変わらないが、噂通り魔道を使ってきた。曇天で湿った平原に炎が巻き起こり、多くの味方が生きたまま焼かれていく。

 それでもシャルルはひるまなかった。敵兵をさんざんに斬り伏せながら、士気を沮喪したフィーランの守兵を鼓舞し、炎を操っている魔道士を探す。彼らさえ倒せば、勝機は見えてくるかもしれないと一縷いちるの望みに懸けた。

 そして敵方の幔幕まんまくの陰に、ぶつぶつとそれらしき呪文を唱えている男たちを見つけて皆殺しにした。途端に炎が消えた。敵陣に飛び交う奇妙な言語はひとつも理解できないが、動揺が走っているのは分かる。

 砦の主力が、いまが勝機とばかりに打って出た。味方が敵を少しずつ押し返していくのを肌で感じた。本当に勝てるかもしれない。その望みが湧いた次の瞬間、シャルルは地面にうつ伏せになって倒れた。

 シャルルの背に突き立った矢は、後ろから飛んできた。味方の誤射かもしれないが、シャルルはそうは思わなかった。味方の中には、シャルルによって帝国からの独立を阻まれたモーア卿の軍勢もいる。きっと誰かが狙って射たのだ。

 これもまた、彼が受けるべき報いであった。犯した罪が多すぎるために、すべての痛みを罰として受け入れなければならないのだ。

 激痛を感じたのはほんの刹那のことで、すぐに意識が朦朧とし始めた。

 視界はすでに暗黒である。戦場で上がるさまざまの絶叫と血の臭い、大地の震動、それらは混濁して融け合い、やがて歌へと変わった。

 シャルルはその甘美な響きをいぶかしんだ。自分に行ける天国などあるまいと思うのに、まるで人界の辛苦を慰めてくれるような優しい歌声だ。幼い頃聴いた父の声かと思うと、違う。

 ふと瞼にまばゆい光を感じ、シャルルはゆっくりと目を開いた。戦が終わって静まり返った草原のはるか上に、大きな満月が出ている。

 そんなはずはない、今宵は新月か、そうでなくても細い月しか出ないはずだ。であればシャルルが見ているのは、現世うつしよの月ではない。

「シャルル」

 名を呼ぶ声が、はっきりと聞こえた。冷たい指先が、火傷の痕を撫でるのを感じる。痛みに耐えてなんとか上体を起こすと、そこでは清らかな乙女が、あの吟遊詩人とともに立っていた。

「シトリューカ……、ヨナディオ……」

 シトリューカはシャルルに微笑みかけてくれた。

 そして竪琴の和音に続き、異国の言葉でふたりの歌声が響く。戦乱に散ったすべての魂を慰めるような、物悲しくも温かな響きに、シャルルは身も心も任せた。

 ――私のような者をも、女神は導いてくださるのか。

 久しく感じたことのない感情に満たされていく。幸福だ。もったいないほど良い死に方だ。

 シャルルは安らかに瞼を閉じる。母に焼かれた頬の上を、透明な雫が伝って落ちた。

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