第一歌 兜の下にうつくしい女神・2

 丸いレンズの視界に、退却の狼煙のろしが上がるのが見えた。

 ボンサンジェリー軍は、山上の陣地と、計略にかかってしまった先鋒部隊と、この戦いの勝利とをすべて放棄して、撤退を始めたらしい。

 雑木林の陰に潜み、遠眼鏡で敵陣を見つめていた斥候が、本陣へ駆け出す。一見獣道けものみちのようでいて、人間が歩くために作られたこの山肌沿いの細道を。

 ボンサンジェリーの本陣に隣り合った、高く険しい山に彼は潜んでいた。この土地にかなり詳しい人間でなければ、こんなところに道があろうとは想像だにせぬだろう。レアゼン砦の守備隊が、敵情視察に使うにはうってつけの道筋である。

 とはいえ、この道は、戦のために作られたものではない。レアゼン鉱山の離れた坑道と坑道を繋ぐ近道として、坑夫達が長年踏み固めてきたものだ。その証に、道の先にはかつての銀坑道への入口がぽっかりと開いている。

 先に言ったように、レアゼン銀山は度重なる外寇がいこうのため、現在は閉山となっている。つまり採掘作業をする坑夫がここからいなくなって久しいわけだが、坑道の奥からはなぜだかうっすらと灯りがこぼれていた。

「ボンサンジェリー軍、退却を開始しました!」

 坑道に飛び込むや否や、斥候は叫んだ。

 ここは彼の自陣であった。ボンサンジェリー軍を迎え撃つゼアテマ軍の別働隊は、銀鉱山の薄暗い洞穴を入ってすぐの詰所跡で待機していた。ここはかつて大勢の坑夫が休憩をする為に整備された場所で、数十人が寝泊りできるくらいの広さがある。斥候が戻ったのは、別働隊全体の指揮を執る本隊の陣である。このような小部隊を、ゼアテマ軍は敵陣の北側の坑道の中にいくつも伏せさせていた。

「確かに確認したのだな?」

 副将が立ち上がった。斥候は頷く。

 彼は確かに見ていた。ボンサンジェリー軍の灯した松明たいまつの火が行列となって、レアゼン山上から南東へと下っていくさまを。その火の動きは緩慢な蛇のようで、これから戦をする軍の有様とは到底思えなかった、と斥候は自らの感想を交えつつ語った。

「南東の行路からレアゼンを攻める迂回路は存在しません。ボンサンジェリー本国への退路以外には取り得ない進路です。将軍」

 副将が、兵士たち全員が、将軍と呼ばれた人物のほうを仰ぎ見た。

 彼らの視線の先には、いかめしい鎧兜をまとった筋骨隆々の武辺者ぶへんものはいない。怜悧冷徹れいりれいてつな、薄ら髭の策謀家もいない。

 そこにはただ、白銀の鎧を纏った乙女がひとりいるだけだった。絹糸のような美しい髪と、白く艶やかな肌と、きらきらと潤んだ大きな瞳。

 その乙女は、ほの暗い洞穴の明かりの中でも、自ら光を放つかのような美しさを持っていた。

 乙女は立ち上がり、微笑みながら言った。

「火薬番に伝えて。青色の花火を上げてください、と」

 次々と歓声が上がった。乙女の発した言葉は、兵士たちにとって勝利の宣言と同じ意味である。

 斥候は再び走る。この坑道は入口と反対方向に進むと、火薬番の詰める高台へと繋がっている。乙女たちが穴の外に出ると、ほどなく青い花火が次々に上がった。そのたびに夜の闇が明るく瞬いて、兵士たちから感嘆の声が漏れた。麓で待つ砦の友軍も、他の坑道で待機していた部隊も、これで作戦の成功を知るだろう。

「今回も、見事な策でした。しかし、敵が迂回して攻めてこなくてよかった」

 副将が、兜を取って乙女に話しかけた。金髪の青年が、ほっとしたような表情で空を見上げる。彼の名はミゼルといった。

「北面は、本当はがら空きでしたからね。ちょっと危ない賭けだったわね」

 乙女の名は、シトリューカ・サン=セヴァチェリン。

 ゼアテマの北隣、サン=セヴァチェリン王国の王女たるシトリューカは、このときまだ十七歳であった。ミゼルもまだ三十路に差し掛かってはいなかったが、彼女はいっそう若く、しかも美しかった。

 なんとこのシトリューカこそが、今回の作戦の発案者であり、ゼアテマの別働隊を率いていた将軍なのである。

「でも、ボンサンジェリーのイハール皇太子殿下は、慎重で聡明な方として聞こえた御方。ふたつしかない進軍路のひとつが罠によって断たれれば、もう一方にはさらに大きな罠が仕掛けてある――と、勝手に思い込んでくださるだろう、と思ったの」

 それが、シトリューカの作戦であった。万が一ボンサンジェリーが北の迂回路を取って攻めて来れば、神出鬼没の如く伏兵が現れてその脇腹を突く構えではあったが、ボンサンジェリーの大軍の前では決して十分な兵力とはいえなかった。

「ええ、本当にお見事な策でございました、将軍」

「『将軍』はよしてください。今日のところは、もう戦いは終わったのですから」

「これは失礼しました。では、シトリューカ様」

 シトリューカは空を見上げた。夜空に、大輪の青い花が次々と咲いては煌いて消えていく。この時代、火は情報を素早く伝える手段でもあった。

「いつ見ても、青い花火は美しいものですね」

「ええ。でも、こんな戦争のためでなくて、お祭りか何かで見られればいいのに」

「まったくです」

「あなたもお疲れ様でした、ミゼル」

「いいえ、またもゼアテマのことでご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ないと思っております」

「ミゼル、それは言わない約束ですよ。私はいずれ、ゼアテマに嫁ぐ身。ゼアテマの為に戦うのは、私の意志なのだから」

 はっきりと言い切るシトリューカの横顔に、ミゼルは思わず見とれていた。すぐ傍にいながら、決して手の届かぬ人である。

 まるで天上の女神のようだ――何度も頭をよぎる言葉を、ミゼルは決して口に出すことはない。シトリューカはそう呼ばれることが好きではないと、ミゼルは自らの主君から聞き知っていたからだ。

「そろそろ帰還いたしましょう。あなたのヨナディオ王子が砦でお待ちです」

 ヨナディオ、という名を聞くと、ふとシトリューカの表情が翳った。

「ええ。――ヨナディオは怪我をしていないかしら」

「ご安心ください。斥候の報告によると、王子は今回も無傷だそうです」

「そう、よかった……。月神よ、感謝致します」

 乙女は短い祈りを捧げると、ミゼルと共に兵をまとめ、麓のレアゼン砦へ帰還した。

 シトリューカ・サン=セヴァチェリン。この可憐な少女こそが、これから語られる歌物語の主人公である。

 彼女はゼアテマの隣国、サン=セヴァチェリンの王女にして、ゼアテマに勝利をもたらす「戦場の女神」と讃えられていた。

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