第一歌 兜の下にうつくしい女神・3

 戦勝の宴のあと、「戦場の女神」はひそかにレアゼン砦の屋上へ向かった。そこには同じく戦に出ていたゼアテマの王子、ヨナディオ・ゼアロードが、優しい微笑みをたたえて待っていた。

 シトリューカの国サン=セヴァチェリンとヨナディオの国ゼアテマは隣接する同盟国であり、その王女と王子は、将来を誓い合う仲であった。

 兜を脱ぎ捨て、錦糸の髪を解き放ち、ヨナディオの胸に飛び込むシトリューカ。ひとりの乙女にとっては、愛する人とくちづけを交わして、抱きしめられるそのときこそが、何よりも幸せな瞬間のはずだった。

「無事でよかった、シトリー」

「ヨナディオ、あなたこそ……」

 それが、いつの間にか二人の逢瀬おうせの挨拶になってしまっていた。

 この時代、リオラントには戦乱の嵐が吹き荒れていた。シトリューカとヨナディオにも、常に戦争の闇がつきまとって離れなかった。心の底から幸せで穏やかな時間は、ものを知らぬ幼子だった時代から、もう何年も訪れていなかった。

 今回の戦でレアゼン砦の総大将を務めていたヨナディオは、まだ二十二歳と年若かったが、兵士達の士気を鼓舞するため、王子でありながら常に前線に立ち続けていた。

「シトリー、ごめんね……僕はいつも、君を戦場に立たせてしまう」

 二人きりのとき、ヨナディオはシトリューカを愛称で呼んでいた。彼がシトリューカの策の見事さを褒めることは一度もなかった。戦の勝利は、失われた命の上にしか成り立たぬものだ。それがたとえ敵の将兵のものだけであったとしても、シトリューカはそれを喜ぶような人ではなかった。

「あなたは悪くないの、あなたは……」

 戦が起こるからいけないの、とシトリューカは答える。ヨナディオは表情をさらに曇らせた。

「でも、これから、戦いはより過酷になる。東のギオークが、次々に周辺国を飲み込んでいっている」

「ええ……、ギオークの大将軍は無慈悲で恐ろしい人だと聞いているわ。それに、とても戦上手だと」

 ヨナディオは黙って頷いた。

「彼らが本気でゼアテマに攻めてきたら……僕たちには勝ち目があると思えない。そうなってまで、君が戦場に出ることはない」

「いいえ、ヨナディオ。私が戦うのは、私の意志よ」

 ミゼルに言ったのと同じことをもう一度口にする。

 生来シトリューカは、才こそあれど戦など好まなかった。それでもなお乙女が剣を取るのは、ヨナディオを勝利に導き敵から守るため、ただそれだけの理由であった。たとえその胸が痛んでも、愛する人のためにできることがあるのならば、彼女に迷いは何ひとつなかったのだ。

「何があっても最後まで、あなたの傍で戦いたいの」

 シトリューカの健気な言葉に、ヨナディオも愛しさが募ってしまう。

「シトリー、戦が全部終わったら、このリオラントに平和が訪れて、僕たちも無事でいられたら――」

 その後は、もう言葉にならなかった。

 戦の後の心のうずきと、愛する人のぬくもりに包まれる、二人だけの夜。

 大きな満月だけが、冷たい闇を放ちながら、それを見ていた。


* * *


 将軍は、北方の物見塔に赤い炎が灯るのを見ていた。

 いましがた遠くで光った火は、ボンサンジェリーの主軍がレアゼンから撤退を始めた合図だ。とはいえ、この近く――ボンサンジェリーの都、バエンニュラ近郊まで戻るには、もうしばらく時間を要するだろう。

 漆黒の兜の下から、将軍の冷徹な笑みが覗いた。

「早いですな。少し早すぎるようだが。ヴァルカン将軍、もしや脇腹を突かれはせんだろうか」

 横からもうひとりの将軍が口を出した。全身黒い出で立ちの将軍――ヴァルカンはすらりと細い体軀であるのに対し、彼は陣営を照らす松明と同じ色の鎧を纏った重戦士であった。

「むしろ早すぎるから良いのだ。さしずめ『戦場の女神』の策に翻弄され、ろくに戦わせてもらえぬままの敵前逃亡といったところだろう。意気沮喪した軍など、恐れるに足らぬ」

「……そうですな。そのうえ、都が急襲されたと知れば、将兵も心中穏やかではありますまいな」

 ほとんど敵兵を憐れむかのような調子であった。

「不服か? ザンチ将軍」

「率直に申し上げて、どうもこういった戦は性に合いませんのでな。まるで空き巣の手口ではないか」

 赤い鎧の重戦士――ザンチは、不快さを隠そうともせずに答える。

 ヴァルカンは鼻で笑った。

「戦に好悪こうおなど、不要。我々ギオーク軍人は、最も有益な手段で、皇帝陛下の御威光をこのリオラントにあまね顕揚けんよういたすのみ」

 ザンチはむっつりと黙ってしまった。ヴァルカンが立ち上がり、掲げた右手を振り下ろす。それが進撃開始の合図だった。

 かくてギオークの大軍は、月夜の闇を纏って暗黒の海嘯かいしょうそのものとなり、主力不在で手薄となっていたボンサンジェリーの都に容赦なく襲いかかった。そしてわずか数日のうちに、兵も民も、街も畑も、そして王と王の城に至るまで、完膚なきまでに蹂躙じゅうりんしつくしたのであった。




* * *




 ――おや、もうこんな時間なのか?

 悪いねえ、わたしはそろそろ行かなくちゃならなそうだ。

 なに、とっておきの歌物語って、たったそれだけかって? そんなわけないじゃあないか。

 まだ話は始まったばっかりに決まってる。

 続きを話してあげたいし、わたしも聞いてもらいたいんだが、わたしらはひとところにじっとしてはいられないんだよ。続きは、また今度にしちゃあだめかね?

 そうだねえ……それじゃあ、次の満月の夜にわたしはここに戻ってくるよ。

 そのときにあんたがここにいれば、今日の満月の導きに感謝しよう。

 そうでなければ、単なる通りすがりだったってことさ。

 あんたもわたしも、お互いに、ね。

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