第十歌 月のごとくに心もめぐる・2

 ディエナは後悔していた。あの夜、どうしてひとりで逃げ出してしまったのかと。

 雨のお陰でヴァルカン邸は全焼を免れたものの、側室と使用人全員が寝起きする部屋が足りなくなってしまった。寝起きして差し支えないのは一階の客間と、シャルルの書斎および寝室とシトリューカの部屋くらいである。

 親類が近くに住んでいる使用人と、二人の側室は屋敷を出ることになったが、ディエナには帰る場所がない。客間は使用人たちが使っているので、シトリューカの部屋を使うことになった。シトリューカの一存で決められたことだ。屋敷の修繕が終わるまでは、彼女はシャルルの書斎の床に布団を敷いて寝るのだという。

 正室が側室にわざわざベッドを譲ってくれるとはなんともお優しい心遣いだが、ディエナにとっては余計なお世話でしかなかった。ふかふかのベッドよりも、シャルルと同じ部屋に住めるほうがずっといいのに。

 シャルルは身の回りが落ち着くまで軍務を休むようだが、身体に大事はなかった。犯人たちは全員捕まって、ロザールの広場で斬首刑に処されたらしい。

 これで事件は一件落着、屋敷は狭くなったけれど、シャルルと一緒に寝られるなら、ディエナにとってはそれで十分元通り――そのはずであった。

 火事から五日目の夜、シャルルは部屋に訪れた。ディエナは使用人に薬包を届けさせたりはしない。いつでも来てほしいと、自分からシャルルに伝えたからだ。身体の芯からとろけるような甘い夜も、穏やかに抱き合って眠るだけの夜もあったが、彼の温もりが感じられるなら、どちらでも幸せなのだ。

 ただディエナにとって心残りなのは、何をしてもシャルルを満たしてあげられないことであった。

 ディエナのせいではない、眠れるだけで十分だと彼は言うが、それは違う。ディエナ自身が望んでいるのだ。それに、シャルルが顔を歪めて身体を貫く快感に喘ぐのを、いつかこの目で見てみたい。――さすがにはしたなくて、口にはできないでいる。

「しばらくはここで寝たい」

 シャルルの宣言を、初めディエナはもっけの幸いと喜んだ。彼はすぐ隣の書斎でシトリューカが寝ているのが落ち着かないのだ。

「かわいそうなシャルル。自分の命を狙ってる人が奥さんだなんて」

 ディエナには、軍装のまま寝転がるシャルルが大きな黒猫のように見える。隣で横になって髪を撫でると、不機嫌そうな視線を向けられるものの、本気で怒られることはない。

「いろいろ聞いてるわ。シトリューカって、あなたと戦って負けた人と婚約してたんでしょ? だからあなたを殺して仇を取りたがってるんじゃないかって。うっとうしい人ね」

 ディエナはあくまでも無邪気であった。シャルルに同調するつもりで、シトリューカの悪口を言う。

「もしかして、今回の火事もシトリューカのせいなんじゃない? 火事の前に、怪しい男を連れ込んでたそうじゃない。犯人たちはシャルルの部屋の真下で爆発を起こしたんでしょ? きっと前もって、ここの間取りを調べてたんだわ」

「シトリューカは、無関係だ」

 まさかシャルルがシトリューカをかばうとは、ディエナは思ってもみなかった。

「……どうしてそう言い切れるの?」

「城の刑務官にも同じことを聞かれた。だが私を殺す気なら、あの晩にそうしているはずだ」

 大きな手が、ディエナの髪から背を撫でた。シャルルの指が傷の上をなぞる感触が、今日はやけに不快だ。

「彼女は自分の復讐に、無関係な人間を巻き込みはしない」

 まるでシトリューカのことをよく理解しているかのような口ぶりである。

「どうしてあなたを置いて逃げなかったのかしら?」

「分からない」

「ふうん……」

 ディエナの心の奥で警鐘が鳴る。

 自分を置いて逃げなかったシトリューカのことを、シャルルは間違いなく意識し始めている。私も逃げなければよかった、シャルルのもとへ行けばよかった。ほんの数ヶ月前に居城を焼かれたばかりなのに、またしても見舞われた火災に驚いて、一も二もなく避難してしまった。シャルルのことを思い出す余裕なんてあるわけがなかった――でも、シトリューカにはその余裕があったのだ。

 ディエナはあえてシャルルに背を向けた。機嫌を損ねたと態度で示すためだ。しかしシャルルはディエナにやたら媚びたり、甘い言葉でごまかしたりするような愚を犯さない。ディエナの気が乗らないなら、無理に乗せようとはしないのだ。

 強がるだけ損である。結局寂しくなったディエナは、ごろりとシャルルに向き直って彼の唇を奪った。

「何だ、急に」

「あのね、シャルル。私はあなたのこと好きなの。愛してる」

「愛していた男に似ているからか?」

「違う。……もう、違うわ」

 シャルルは訝しげに眉を寄せる。といっても、左眉は火傷のせいで生えてこないし、皮膚が引き攣れて上手く動かない。レナンたちは「火傷さえなければね」と言うけれど、ディエナにはこの火傷も愛おしいのだ。

「あなたが本当は優しい人だってこと、知ってるから」

 無根拠だとは全く思わなかった。少なくともディエナに対しては真実であった。シャルルがベッドの中で与えてくれる悦びは、いつもディエナを満たしてくれる。触れて欲しいところを丁寧に探られ、暴かれ、心ゆくまで愛撫される。ディエナにはシャルルに大切に扱われている実感があった。大好きだった兄の面影を忘れて、シャルルその人のすべてを愛しいと思うようになっていた。

 ディエナはシャルルの火傷の痕を撫で、迷惑そうに閉じた瞼の上に唇を重ねる。

「……だから、ずっと一緒にいてほしいの」

 ――そう。シトリューカに、私たちの邪魔なんてさせない。

 シャルルは答えない代わりに、ディエナを抱き寄せてくちづけてくれた。すべての秘密を解きほぐされる悦びにうち震えながら、少女は危うい考えを巡らせていた。

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