第十歌 月のごとくに心もめぐる
第十歌 月のごとくに心もめぐる・1
やあ、こんばんは。
ミゼルらの襲撃の後、シトリューカやシャルルたちはどんな様子だったのか。
少し物語の時間を巻き戻そう。襲撃の翌日、雨の降りしきるヴァルカン邸に……。
人はうらみを忘れられるか
憎しみは愛に変わるか
幾度も欠けて幾度も満ちる
月のごとくに心もめぐる
焦げた窓枠の外では、激しい雨が降り続いている。
シャルルがベッドの上で瞼を開いたとき、シトリューカはその傍らにいた。
心配で離れられなかったのではない。ヴァルカン邸の半分以上が焼けてしまい、使用人や側室たちの部屋が足りなくなったために、仕方なくシャルルの寝室にいるだけだ。
「おはようございます。……もう昼ですけれど。ご気分はいかが?」
良いはずがないと分かっていて、シトリューカは聞いた。シャルルは身を起こそうとしたものの、顔をしかめて再び身を横たえざるを得なかった。まだ頭痛がするらしい。
「……竪琴は?」
開口一番、シャルルが気遣ったものは皇帝陛下から
「無事よ、あなたが抱きかかえていたから。本棚の元の場所に戻してあります」
「良かった」
無意識に安堵の言葉を漏らした後、シャルルは表情を取り繕った。
「なぜ、私を置いて逃げなかった」
「……さあ、どうしてでしょうね」
「私に貸しを作る気なら、無駄だ」
シャルルはまだシトリューカが復讐の機会を狙っていると思っているし、実際にその通りであった。けれどもシトリューカの心に芽生えた「復讐」は、シャルルが考えているものとは全く別のものである。
「とりあえず、飲んで」
シトリューカは夫のために水を注いでやった。青いガラスの水差しも陶器の器も、シャルルには見覚えのない形だろう。
「お城から、生活に必要なものを分けていただきました。食器もほとんど燃えてしまったから、いくつか分けていただいたの。毒は入っていませんから、どうぞご安心なさって」
シャルルが目覚めない間に、シトリューカが代わりに家の中のことを取り仕切っていた。食器だけでなく、食糧や水、衣服や布団なども分けてもらったから当面はなんとかやっていけるだろう。
さいわい屋敷の住人の中に命を落とした者はいなかったが、ひどい怪我を負った使用人二名には追って見舞金を出すことを、シトリューカの一存で決めた。
「重傷を負った者がいるのか」
ようやくシャルルが尋ねてきた。竪琴よりも、こちらを先に心配するべきではなかったか。
「犯人たちは火薬を使って、この部屋の真下の廊下で爆発を起こしたそうです。巻き込まれた料理長のゼペルと洗濯係のクララの夫妻が、どちらもひどい火傷でしばらくは働けません。命が助かっただけよかったけれど……」
「犯人?」
「あら、お分かりでなかったのですね。あなたは命を狙われたのです。あなたが亡ぼした国の人たちから」
思わず強い口調になる。
犯人たちは、みなシトリューカと同じ立場の人間だ。大雨のせいでシャルル暗殺に失敗したうえ、城から出動してきた兵士たちにみな捕らえられてしまった。その無念はいかばかりだろう。「ご安心ください奥様、みんな死刑になりますよ」と、兵士のひとりが屈託なくシトリューカに言った。その中に、シトリューカがかつてともに戦ったゼアテマのミゼルもいるとは知らずに。
「……そうか」
シャルルはゆっくりと身体を起こし、一息で水を飲み干した。よほど喉が渇いていたらしい。燃える屋敷の中で倒れていたのだから当然である。彼は眠っている間ひどく
「……なぜ、あなたを置いて逃げなかったか、教えてさしあげましょうか」
器に二杯目を注ぎながら、シトリューカは言った。
「火事に気づいたとき、まずはもちろん逃げなくては、と思いました。でも、その次に思い浮かんだのは、蝋燭の火すら嫌がるあなたのことでした。興味が湧いたの、あなたがどんな顔をしているか。助けるつもりなんてなかったわ」
それは半分嘘であった。確かに助けたかったわけではない。でも助けなければ、真の「復讐」は成し遂げられないことにも気づいていた。
「……あなたは、竪琴を抱いて倒れていました。覚えていないかしら? あなたが私に言ったのよ。『助けて』と」
それだけなら、憎い仇のみっともない姿をあざ笑って溜飲を下げることもできたかもしれない。けれどもシャルルは「助けて」の後に、さらにある言葉を続けた。それを聞いたシトリューカは、彼を置いて逃げられなくなったのである。
シャルルは黙って二杯目の水を口にした。シトリューカも、彼がほかに何を言ったのかをここで話すつもりはなかった。
重く気まずい沈黙は、ドアをノックする音に救われた。レナンだ。さいわい彼女の火傷は軽く、火事場の後片付けを手伝ってくれている。
「お城からお役人さんが来ています。旦那様にお見舞いだそうで」
「ここに呼べ」
シャルルが目配せする。シトリューカは立ち上がって辞去した。
寝室から書斎へ出ると、本棚や机は燃えていないものの煤をかぶってずいぶん真っ黒になっていた。その中で、竪琴だけが変わらずぴかぴかのままだ。極度に火を嫌っているはずのシャルルが、身を挺して守ろうとしたためである。皇帝からもらったというだけで、そこまでできるものだろうか。
――助けて。……助けて母さん、熱いよ。僕を置いていかないで。
あのときシャルルは確かにそう言ったのだ。シトリューカの腕にすがりつきながら、何度も
その姿に、シトリューカはつい同情してしまった。いとけない子どものように母を呼ぶシャルルがあまりにも哀れで、どうしても放っておけなくなったのだ。
必要以上にシャルルのことを気にかけている自分に気づく。「どうでもいい」とはもう言えなくなっている。無関心を貫くには、あまりにも長く彼と机を挟みすぎた。
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