第九歌 あこがれは露と消えゆく・3

 暗闇の中では、血溜まりさえもどす黒かった。

 寝ずの番に疲れていたヴァルカン邸の番兵に、ミゼルは背後から忍び寄って一息に喉をかき切った。番兵は声すら上げる間もなく絶命した。およそ武人の戦い方ではないが、手段を選んではいられないのだとオーディルの言を自らに言い聞かせる。

 ミゼルは眼前にある正面玄関を睨んだ。

 何としてもシトリューカ様をお助けする。

 作戦では、南西側の炊事場から火の手が上がったら、この扉から出てくるはずのシャルルを仲間とともに誅する手はずになっていったが、従う気はない。屋敷の中に飛び込んで、身を盾にしてシトリューカを守るつもりであった。

 振り向くと、南西にいるオーディルが大きく手を振って合図している。炊事場に続く勝手口のドアを破ったらしい。

 油や火薬を、男たちが手分けして屋敷の中へ持ち込んでいる。油も火薬もかなりの量だ。どこから入手したのだろうか。裕福な協力者とは、誰なのか。――ともかく、ミゼルも後に続こうとした。

「どうした。貴殿の持ち場はここではないはず」

 勝手口を塞ぐオーディルに阻まれる。その表情は闇に紛れて見えない。すでに火付けは始まっている。立ち込める不快な煙の臭いは、ミゼルを大いに焦らせた。

「オーディル、そこをどいてくれ」

「貴殿こそ、持ち場を離れるな」

「私の目的は、シトリューカ様を助けることだと言ったはずだ」

 ふ、とオーディルの唇から声が漏れた。

「ずいぶんと必死だな? さては惚れておるのだろう、『戦場の女神』に。姫を助けてどうする? 自分のものにするのか?」

「馬鹿なことを」ミゼルはますます苛立った。「いいからそこをどけ!」

「よいではないか。彼女はもう『姫』ではない。貴殿にも手の届く普通の女だ。火が回るまでもう少し待ったほうがよいぞ。危ないところを救ってやれば、さぞかし感謝されよう」

「黙れ!」

 ミゼルはオーディルの襟首を掴み、勝手口の内側へと力任せに押し倒した。炊事場はもう一面火の海だが、火をつけに入った仲間たちの姿がない。なぜ居ないのだ。一緒に焼け死ぬつもりか。

 そのとき屋敷の反対側から、ドン、と何かが破裂する音がした。

 ミゼルにはそれが何の音かすぐに分かった。――火薬だ。遅れて爆音に叩き起こされた使用人たちの悲鳴が聞こえる。

「首尾は上々のようだな」

 ミゼルに抑えつけられたまま、オーディルが言った。

「話が違う! 北東側には火をつけないのではなかったのか!」

「私も言ったはずだ、『手段など選んではいられない』と。私が仕えたサンジェリー王家は、十六歳のディエナ姫に至るまでむごたらしい最期を遂げられたのだぞ。ゼアテマとて同じであろう。むしろ私には貴殿の態度が不可解でならぬ。なぜ呑気にお姫様のことばかり考えていられる? なぜ復讐を果たさずに平気な顔をしていられるのだ?」

 その問いに、ミゼルは上手く答えられなかった。見開かれたオーディルの両目が、闇の中に白く浮かんでいる。

「お人好しのゼアテマ人め。そんなことだから、ヴァルカンに騙されるのだ」

 オーディルは初めから、シトリューカを巻き添えにする気だったのだ。ミゼルは怒りを込めて彼を殴りつけた。こんなやつらと手を組んだ自分が愚かであった。床を蹴って、炎が逆巻く邸内へと飛び込む。

 正面玄関は開け放たれていた。先に火を付けたやつらが逃げたのだろう。

 すすをかぶった使用人たちに続いて、二階から口元を押さえて降りてくる三人の女とすれ違った。その中にはまだ二十歳にもならぬ娘もいたが、シトリューカではなかった。

 炎は黒煙とともに、階段の手すりを舐め上げるように二階へと続いている。ミゼルはためらわず駆け上がったが、シトリューカの部屋は空であった。もう避難したらしい――ミゼルが胸を撫で下ろそうとしたそのとき、彼女の声が聞こえてきた。

「シャルル! シャルル! しっかりして!」

 北東側、最奥の部屋だ。ミゼルはシャルルの書斎へと駆け込んだ。

「シトリューカ様!」

 風向きと見かけよりも頑丈な普請ふしんに嫌われて、この部屋はオーディルたちが狙ったほど燃えてはいない。

 シャルルは何かを抱えたまま、床の上でうつ伏せに倒れていた。煙を大量に吸ったのだろうか、意識が混濁しているようだ。手を下さずとも、放っておけば苦しみながら焼け死ぬだろう。

 ところがシトリューカは、その傍らに膝をついて、シャルルを助け起こそうとしていた。

「いまのうちに早くお逃げください。あなたはもうヴァルカンの妻である必要はない」

「……これは、あなたがやったことなのね?」

 危ないところを救えば、シトリューカに感謝される。そうオーディルは言ったが、顔を上げてミゼルの姿を認めたときの彼女はむしろ怒っていた。

「……こうでもしなければ、あなたを救い出すことはできませんので」

 姫君の目を見ることができない。さあ早く、と差し伸べた手を、シトリューカは取ろうとしなかった。

「ここにいるのは私とシャルルだけではありません。罪のない人たちも大勢住んでいるのよ。目的を果たすためなら、何をしてもかまわないというの? それではこの人のしたことと同じだわ」

 シャルルがかすかにうめき声を上げる。毅然としたシトリューカの視線が、炎に煽られていっそう光った。

「ミゼル、私を助けたいというなら手を貸してください。私ひとりでは、この人を運べないわ」

「ヴァルカンを……助けろというのですか。なぜです? この男は、ヨナディオ王子を手にかけたのですよ。憎くはないのですか」

「もちろん憎いわ」

 シトリューカは即答した。

「でも見捨てるわけにはいきません。こんなところで死んでもらっては困るの。この人には、自分がヨナディオやほかの国の人々にしたことを、ちゃんと後悔して苦しんでもらわなくては」

 その言葉を聞いたとき、ミゼルはようやく己の過ちに気がついた。

 ――それは、愛情と何が違うんだ?

 シトリューカは、まだ気づいていない。愛と憎しみは必ずしも両極にあって、互いを排し合う感情ではないことを。かつてミゼルがヨナディオに対して、深い敬愛と同時にかすかな嫉妬を抱いていたように。

 ――いまはまだヴァルカンに対する憎しみのほうが勝っている。けれども、いつかは……。

「シトリューカ様、どうしても私とともに逃げる気はないのですね?」

「シャルルと一緒でないなら、私はここを動きません」

 ミゼルの胸中に、深い失望がじわりと広がる。シトリューカにではない、自分自身に対する失望だ。

 シトリューカには、ヨナディオ王子を一途に愛し続けていてほしかった。シャルルのことを憎み続けていてほしかった。自分の理想通りの女性でいてほしかった。ここから救い出そうと決めたのも、本当は彼女やヨナディオ王子のためなどではなかった。手の届かない美しい乙女の変わらぬ愛を確かめて満足したかったのだ。すべては、己の身勝手な願望であった。

 突然、激しい雨音がミゼルの耳朶じだを打った。この国では雨などめったに降らないのに、こんなときにだけ降るとは。

 火勢が急激に弱まっていく。天は、手段を選ばぬ卑劣な復讐者には味方しなかったのだ。

「……さようなら、シトリューカ。あなたに、会えてよかった」

 最後に見たシトリューカの眼差しは険しかった。彼女は優しさと慈悲深さの裏側に、強い意志と激しさを秘めていた。まさに女神と呼ぶにふさわしいが、ミゼルがそれを口に出すことはついになかった。


* * *


 空は一面雲ひとつなく、真っ赤な夕焼けに染め上げられていた。

 マール=ジョー楽団がギオザに辿り着いたとき、帝都の石畳には無数の水たまりができていた。新月の晩から突然降り出した大雨は丸二日降り続き、楽団はギオザ郊外の村に留まらざるを得なかった。グライスとバンチェッルが、自分の相棒たる楽器を濡らすのを嫌がったのである。マールはびしょ濡れになっても踊りたいが、ここは楽器を愛する仲間に譲った。

 まあ、どうせ月が出ないとクロワは歌えないのだ。雨雲はすっきりと過ぎ去った。今日は日の入り後に細い月が上るだろうから、ロザールの広場で客を集められるだろう、とマールは考えていた。

 ところが一行が広場に辿り着いたとき、中心にある舞台は役人たちと禍々しい木組みの装置に占拠されていた。ざわつく群衆がそれを取り囲み、マールが踊れる隙間もないほどだ。

「うわあ、断頭台だぜ」

 グライスが言った。

「公開処刑か。やなときに着いちまったなあ」

「今日ここでやるのは無理そうだな。早く宿でも探しに行こうぜ」

 血を見るのが嫌いなバンチェッルが促す。

 役人が声高に罪状を読み上げる。ここなる罪人ジフ・オーディル以下十三名は、ギオーク帝国第一将軍シャルル・ド=ヴァルカンの暗殺と夫人シトリューカの誘拐を企て、二日前の深夜ヴァルカン邸の警備兵を殺害したうえ屋敷に火を放ち、将軍含む住人らに重度または軽度の火傷を負わせたものである。

「おお、怖い」

 通りすがりに、処刑見物に来た中年女がつぶやくのが聞こえた。

「もしも大雨が降らなければ、将軍様もお屋敷も全部燃えちまってたかもねえ。ひどいやつらだね」

 ふとマールが振り返ると、クロワは声もなく壇上を見上げていた。罪人の中にいる金髪の青年を凝視して動かない。

「どうしたんだい。あんた、こんなのが見たいのかい?」

 金髪の青年もクロワに気づいたらしい。途端、彼はギオーク語ではない異国の言葉で何かを叫んだ。兵士たちが青年を取り押さえる。

「ヨナディオ王子! シトリューカ様は、ヴァルカン将軍の妻なのです!」

 物心ついたときから旅をつづけていたマールには、その言葉が分かる。ゼアテマの言葉だ。

 ――ヨナディオ王子だって?

 断頭台の刃が落ちる度に、群衆がどよめく。金髪の青年はもう何も喚かず、穏やかに自分の番を迎えた。

 マールはクロワの横顔を見つめた。おそらくは知り合いらしい青年の首が転がる一部始終を目の当たりにしながらも無表情のままで、白い頬には涙の一筋すら流れない。

 いや、泣くことができないだけかもしれない。彼にできるのは、月夜に歌うことだけだ。感情を表現できるのはそのときだけなのだ。

「クロワ、今宵は人前でやらないことにする。あいつの魂のために歌えばいい。あたしたちも付き合うよ」

 マール=ジョーがクロワの肩を叩いたとき、彼の感情のない瞳がわずかに揺らいだ気がした。


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