第九歌 あこがれは露と消えゆく・2

 光に乏しい穴蔵は、帝国に対する怨嗟えんさに満ちていた。

 ロザール貧民街の北端、風が吹けばいまにも崩れそうな木造のぼろ屋にしつらえられた半地下には、ミゼルを含めオーディルが集めた十人を超える同志がつどっていた。帝国軍――シャルル・ド=ヴァルカンの軍に亡ぼされて没落した男たちだ。いずれも元は名のある王侯貴族や軍人だったというが、ミゼルにはほとんど顔が見えなかった。暗がりを照らすのは、オーディルが掲げる手燭のちびた蝋燭だけである。

「深夜に警備兵を殺害した後ヴァルカン邸に火を放ち、逃げ出したシャルルを複数人で捕えて討ち取る」

 それが、オーディルが説明した大まかな作戦方針であった。「異論のある者は?」との問いかけに、誰かの声が上がる。

「屋敷を燃やすほどの油を、どうやって確保する?」

「その点は心配無用だ。名は明かせないが、裕福な協力者がいるのでな」

 ミゼルも手を上げた。

「火を使っては、シトリューカ様の安全が確保できないのではないか?」

「それも案ずることはない」

 オーディルは泰然と言う。

「ちょっとした小火ぼや騒ぎを起こすだけだ。シトリューカ姫のおわす部屋からはなるべく離れたところへ火を放つ。屋敷の間取りは調べがついている」

「ヴァルカンの部屋は、北東の奥。その斜向かいが、夫人の部屋」

 オーディルが灯りを差し向けた先の男が、たどたどしいギオーク語で言った。

「もし南西の炊事場辺りから火を放つなら、夫人は心配ない」

 シトリューカを指す「夫人」という言葉は苦々しく響いたが、夫婦の寝室が別らしいことは少なからずミゼルの心を慰めた。

「ヴァルカンを焼き殺すことが目的ではない。あやつが着の身着のまま、丸腰で逃げ出してきたところを取り囲むのだ」

 顔の見えぬ男たちが、口々に声を上げ始める。

「そうだ。炎で死なせなどせぬ。この手で成敗してくれるわ」

「まあ待て、あのヴァルカンめは恐るべき剣の達人だからな。一対一で当たってはならん」

「抜け駆けはならぬ。みなで少しずついたぶり、恨みを晴らすのだ」

 暗澹たる熱気の中で、ミゼルはひとり閉口した。

 ――これがかつては誇り高き貴人か武人であった者たちの態度なのか?

 彼とて卑劣な策でエガーテ王を騙し、主君ヨナディオを手にかけ、ゼアテマを滅亡させたシャルルに対する憎しみは深い。だが、屋敷に火をかけてヴァルカンを引きずり出し、袋叩きにして殺す復讐が、いったい彼らに何をもたらすというのだろう。

 急に視界が眩しくなった。ミゼルが思わず手を翳すと、オーディルが険しい目で蝋燭を向けている。

「不服かな、ゼアテマの将よ?」

「……いや、私はシトリューカ様をご無事にお助けできればそれでいい。ヴァルカン将軍への報復は、あなた方にお任せする」

「貴殿は潔癖だな」

 そのときオーディルの言葉に、ミゼルを嘲る響きはなかった。「しかし我々は、もはや手段など選んではいられないのだ。理解してほしい」

「分かっている」分かっているつもりであった。

 作戦決行は、夜空がもっとも暗くなる次の新月の晩と定められた。


* * *


 その晩も、シトリューカは書斎でシャルルと机を隔てて話していた。

 議題は要地防衛ではなく、侵攻であった。ギオン皇帝がまた欲を出したのだ。リオラント大陸の北東、まだ帝国領でない遠い小国群への遠征を命じたのである。

 シトリューカは眉を吊り上げて怒った。

「なぜ陛下をお止めしなかったのですか。この国にだって、大軍を率いて遠征する余裕はないはず」

「無論、お諫めしたが」

 シャルルの声はどこか陰鬱であった。

「聞き入れてはいただけなかった。陛下は昨年お生まれになったエリク皇太子殿下のために、少しでも領土を拡大して国を富ませたいとお考えなのだ」

 好色なギオン皇帝には十人以上子がいるが、女児や身分の低い愛妾たちに産ませた子ばかりで世継ぎとして認められなかった。ようやく正室に待望の男児が誕生したことで、より野心に見境がなくなったらしい。そんな理由でゼアテマやサン=セヴァチェリンが攻められたのかと思うと、シトリューカは余計に憤ろしかった。

「愚かな。逆効果です」

 シャルルがすっと目を細めた。どんなに愚昧でも、彼にとってギオン皇帝は大切な主君なのだ。

「……ごめんなさい。失言でしたね」

 ため息と皮肉の混じった謝罪を、シャルルは無視した。

「分からないわ。あなたは卑劣で残忍で、武人の風上にも置けない人ですけれど、仕えるべき主を見定める賢明さくらいは持っているはず。なぜギオン皇帝陛下に、これほどまで忠を尽くすのです?」

 辛辣な言葉が次々とシトリューカの口をついて出た。シャルルの妻になってから、言葉遣いが荒くなった自覚はあった。

「無駄話など、不要」

 シャルルに答える気はない。シトリューカにしても、本気で理由が聞きたいわけではなかった。

「陛下は私に遠征軍を指揮するようにとお望みだ。モーア卿鎮圧のときよりも、もっと長期間不在になる」

「それは何よりですわね。私も目いっぱい羽が伸ばせます」

「いちいち話の腰を折るな。……遠征はいい。問題は、手薄になるギオザの守りだ。最近では、ロザールの辺りで不穏な動きもあるらしい」

 シトリューカは困惑した。軍の人選をはかられても、答えられるわけがない。

「あの赤い鎧の将軍に任せては? 確か、あなたに次ぐ高位の将軍なのでしょう」

「いや、ザンチは帝都警固には不適だ。私に随行させねばならない」

「なぜ?」

「あの男の忠誠心には疑義がある。陛下が従属国から引き抜いてきた将軍だ」

「あら、私と同じですね?」

 愚痴を聞いてやるつもりなどない。才能を買ってくれるのはありがたいけれど、心まで許さないでほしい。

 シトリューカがそっけなく突き放すと、シャルルは「もういい」と小さく息を吐いた。疲弊の色が、隠すべくもなく滲み出ている。

 夫君のお許しが出たので、シトリューカは一礼して書斎を出る。手燭がシャルルの元から離れるとより暗い影が差した。

 ベッドへ潜って目を閉じると、またあの光景に苦しめられる。シャルルと話した夜はいつも同じだ。しかしその晩シトリューカの眠りを妨げたのは、もっと別の寝苦しさであった。

 ――暑い……。

 落ちかけた眠りの淵から引き戻されたとき、シトリューカは寝床を自らの汗で湿らせていた。

 夜風を取り込もうと窓を開けると、突如黒い煙がどっと流れ込んできて思わず咳き込んだ。煙の色が分かったのは、真夜中にもかかわらず外が明るかったからだ。

 シトリューカは眠気に鈍った頭で考える。今宵は満月だったかしら? ……いや、新月だったはず。どうしてこんなに明るいの。

 夜を照らすのは月ではない。炎であった。屋敷が燃えていることに気づいた瞬間、耳を聾する轟音とともに屋敷ごと揺れた。

 シトリューカは目を見張った。窓越しに、青い火花が噴き上がる。

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