第九歌 あこがれは露と消えゆく
第九歌 あこがれは露と消えゆく・1
こんばんは。綺麗な満月だね。
でも今日語るのは、月の見えない夜、新月の夜の物語だよ。サン=セヴァチェリンの月神信仰では、古くから新月は不吉と考えられてきたそうだ。
さて、今日の物語では、いったい何が起こるかねえ……。
月の隠れる闇夜を越えて
詩人がたどりついた先
女神への想いは届かず
あこがれは露と消えゆく
ギオザ郊外に美しい吟遊詩人が現れた――。
噂は人の足よりも早く走る。当の楽団がギオザの中心街へ辿り着く前に、ヴァルカン邸の使用人たちはどこからかその吟遊詩人のことを聞きつけていた。
彼の名はクロワという。本当の名前ではなく、楽団の仲間が勝手につけた仮の名前だ。夜空を写し取った色の髪と、雪よりも白い肌の若い男だ。月夜に竪琴を奏でて歌う以外には一切口を利かず、整った顔には常に憂いを湛えている。腹には大きな傷があるが、どこでどういう経緯で負ったものかは楽団の仲間たちですら知らないらしい。ギオザの女達は謎めいた美しい吟遊詩人の噂で持ちきりとなり、一目その姿を見られる日を心待ちにしていた。
シトリューカがその噂を聞いたのは、例によっておしゃべりなレナンからであった。ミゼルが見た吟遊詩人とよく似ているようだ。本当にヨナディオかもしれない。クロワの歌を聴けば確かめられるはずだ。シトリューカの期待はいやおうなく高まった。
「きっとあと二、三日もすれば、ロザールの広場に現れるはずです。あそこには旅芸人のための自由舞台がありますからね。奥様も行ってみたらどうです?」
「でも、夜しか歌わないのよね……」
シャルルが外出を許可してくれたのは昼間だけだ。
「何しおらしいこと言ってるんですか。昼に外出して、そのまま帰らなきゃいいじゃありませんか。大嫌いな旦那様の言いつけなんか、ちゃんと守ることないですよ」
レナンに言われてはっとした。
屋敷に閉じ込められているうちに、従順でいることに慣れてしまっていたのかもしれない。監視のひとりやふたりくらい
「奥様、もしかして、旦那様のこと、前ほどお嫌いじゃなくなってるんじゃありません? 最近はよく書斎でお話されてるみたいですし」
レナンが発した興味本位の質問が、シトリューカの心を波立たせた。
「大陸の平和のために、シャルルの仕事に協力しているだけよ」
「へええ、旦那様が奥様にお仕事の話を聞かせるなんて、意外ですねえ。軍人さんはみんな、『女に物騒な話を聞かせるものじゃない』って決めてかかってるものだと思ってました。まして奥様みたいなお姫様に」
確かにレナンの言う通りではあった。
ヨナディオでさえ、シトリューカをなるべく戦争に関わらせまいとしていたのだ。もちろん優しさと愛情から来る配慮だったと分かっているが、彼が自分をともに戦う仲間だと認めてくれていたとは、シトリューカには思えなかった。――シャルルは違う。シトリューカを疎んじながらも「評価している」と明言し、実際に相談を持ち込んでくる。
「……それよりレナン、いつごろ楽団が来るか分かるかしら?」
話の矛先をすり替えたのは、それ以上考えるのをやめたかったからだ。
「もちろんですよ。私たち庶民の情報網を甘く見ないでください」
「ありがとう。屋敷から出られない私には、あなただけが頼りだわ」
胸を張るレナンが部屋を出て行くのを見送って、シトリューカは深いため息をついた。
レナンの言葉は耳が痛かった。毎日のようにシャルルと書斎で話しているうちに、徐々に憎しみが薄らいでいる自覚は確かにあったのだ。
シャルルに協力するのは「大陸の平和のため」であって彼のためではない。とはいえ、彼が時折見せる真摯さに、まったく共感しないわけでもなかった。そんなときは、脳裏にあのベーテルウォール山上の光景が蘇る。この男はヨナディオを無残に殺した男なのだと、シトリューカを戒めるのだ。
シャルルは最近、ニーナを追放して、代わりにディエナを側室に迎えた。
レナンによると、ニーナは妊娠していたらしい。だがそれはシャルルの子ではなく、街にいるという恋人の子だという。なぜシャルルの子ではないとニーナが確信しているのかはレナンにも分からないそうだ。
シトリューカにはニーナが羨ましく思えた。彼女は自由に外出して、密かに愛する人との絆を育んでいたのだ。
ニーナが去った部屋にはディエナが入った。ついこないだ入ったばかりの使用人の女の子だ。年が近いから話くらいできるのではと思ったが、彼女からはほかの側室よりもさらに強い敵対心を向けられている気がする。シトリューカには理由が分からない。
何もかもが煩わしくなって、シトリューカはベッドに身を投げ出した。
シャルルもディエナもどうでもいい。そんなことよりも一日も早くクロワに会って、本当にヨナディオなのかどうかを確かめたかった。
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