第八歌 ひそかなたくらみの芽吹く夜・4
本当は小刻みに震えているのを気づかれたかもしれない。シャルルに手を引かれて書斎に入ると、シトリューカはまだ地図を見て考え事をしていた。彼女が何か言おうとしたとき、ディエナは鋭く睨んで制した。
「奥様。旦那様は、もうお休みになります。奥様もお部屋に戻ってはいかが?」
「でも、あなたは……その、大丈夫なの?」
シトリューカの気遣わしげな表情は、かえってディエナを苛立たせた。
「……奥様にご心配いただくことなんて、何もありませんわ」
冷たく言い放って、シトリューカを書斎から追い出す。彼女は一瞬シャルルを怪訝そうに睨んだが、それ以上何も言わなかった。夫が誰をベッドに連れ込もうと、干渉する気はないらしい。
シャルルの寝室は書斎の奥にある。大将軍の部屋に似合わず、薄暗く陰気で狭い。ベッドは長身のシャルルが寝るだけあって小さくはないが、天蓋も金糸で刺繍されたヴェールもない無骨なものだ。こんな部屋で、これから亡き兄のまがい物に身の純潔を捧げる自分を、ディエナはまるで他人のように感じていた。
部屋に入るなり、ディエナはシャルルに手首を掴まれた。そのまま強引にベッドへ押し倒されて、思わず悲鳴を上げてしまった。こんな乱暴をされたのは初めてで、身体が硬直して言うことを聞かない。
しかしシャルルは、それ以上ディエナに触れようとしなかった。
「ディエナ、お前は何者だ」
シャルルの鋭い眼差しが光る。
「ただの下女ではあるまい。側室の座を望んでいるなら、無駄だ」
どうやらシャルルは、ディエナを将軍家と縁を結ぼうと送り込まれた貴族の娘か何かだと思っているらしいが、ディエナはシャルルの子を生みたくて来たわけではなかった。
「違うわ」
ディエナは問いを否定したが、本当の目的はやはり明かせなかった。シトリューカへの復讐が目的だと知られたら、きっと屋敷から追い出されるだろう。いくら形だけの夫婦でも、シトリューカは皇帝に与えられた正妻である。彼女に危害を加えるのを、シャルルが見逃してくれるわけがない。
「ならば、なぜここへ来た? 何が狙いだ。私の命か?」
「狙いなんて……」
ディエナの声は震えた。
「私はあなたのこと好きよ。だって、愛していた人によく似ているんだもの。どうか私を追い出さないで。身寄りがなくて、ほかに行くところがないの。お願い、私にニーナの代わりをさせて」
最後は懇願に変わっていた。兄には殺されかけたのだ。兄と同じ顔をしたシャルルには、優しくはされなくてもせめて冷たくしないでほしい。兄に抱かれるのなら怖くはない。むしろずっと待ち望んでいた。
ふと、金色の瞳から威圧感が消えた。
「……いいだろう」
シャルルが枕元の薬包を手に取った。子を孕まなくなる薬はさぞかし苦い味だろう。しかし身構えるディエナをよそに、彼は中の白い粉を水もなしに自分で全部飲んでしまった。
「それは、石女の薬、ではないの……?」
「そのような都合のいい薬があるものか」
呆気に取られているディエナを尻目に、シャルルは手早く軍装を脱いだ。ディエナは慎みを忘れてまじまじと見てしまった。彼の裸体は体毛が薄く、よく引き締まって彫像のようだ。服の下までイハールと似ているのかは分からない。兄の裸なんて、果たして見たことがあっただろうか。
「ま……待って」
次は自分が裸になる番だと悟って、ディエナは急に恐ろしくなった。
「私、実は背中に大きい傷があるの。きっと気味が悪いわ」
「嫌ならやめてもいいが」シャルルの声は存外柔らかかった。「この私が、傷を気にするとでも思うか?」
シャルルは顔の火傷だけでなく、身体中にも大小さまざまの傷痕をまとっていた。長い軍隊生活で負ったものだろうか。一際大きい脇腹の傷は塞がっているもののまだ新しく、彼の白い身体を赤黒く汚している。
その傷は、ディエナにわずかな共感と安心をもたらした。こんなにも傷つきながら平然と生きて、何度でも戦いに出ていく人間がいるなんて驚くべきことだ。
恐る恐る手を差し伸べて、盛り上がった傷口に触れると、シャルルの左手も背中の傷の上を滑った。冷酷な軍人のすがたからは想像できないほど繊細な手つきが、ディエナの悩ましい吐息を誘う。目を閉じるとくちづけが降ってきた。少女はその濃厚でやわらかな、初めての感触にすべてを委ねた。
ディエナの身体の奥に何かが灯った。まだ育ちきらぬ胸の膨らみを、ブラウスの上から撫でられることに物足りなさを感じる。服を脱ぐのを、シャルルが手助けしてくれる。胸のボタンをはずし、袖から腕を抜かせることに、彼はあまりに手慣れていた。「旦那様は軍人になる前は男娼だったのよ」と、レナンが言っていたのを思い出す。
少女は我知らずベッドへ身を横たえ、兄に似た男の腕を引いて招いていた。彼の手が、唇が、若い肢体を丹念に愛でていく。これ以上ないほど細やかに、かつ慈しみ深いやり方で。
この罪深い快楽は、すでにディエナの知るところであった。ずっと兄にこうしてほしくて、たまらず自分で自分に触れることがしばしばあったからだ。しかしシャルルに与えられるそれは、もっと強烈で無慈悲で、それでいて甘美であった。彼はディエナが返すひとつひとつの反応を余さず捕まえてしまう。とりわけディエナは背中の傷痕に触れられると弱かった。声を上げまいとすると、かえって身体が敏感になる。
うつ伏せに寝かされるのは降伏の姿勢に似ていた。どこを探られれば狂うのか、この男に何もかも知られてしまう。屈辱と歓喜の波間に揺らされながら溺れていく。身体の芯まで溺れきったとき、ディエナは堪えきれずに高い声を震わせ、未熟すぎた喜びでベッドを汚していた。
本番はここからのはずだ。もはや恐れは小さくなり、ディエナはこれから訪れる悦びと痛みを待ち望んで身体を疼かせていた。しかしシャルルは肌を離して、そのまま寝転がってしまう。
「あ、あの……ごめんなさい」
一気に羞恥心がよみがえって口走る。ベッドの上に染みを作ってしまったことが、きっとシャルルの気に障ってしまったのだと思った。
「謝罪は不要だ」
シャルルはディエナを咎めなかった。
「もう、寝るの? その……続きは、しなくていいの? 私のせいで、気分が削がれたなら……」
「お前に責任はない。ただ、私にはできないというだけだ」
「どうして?」
乱れた長い前髪の下で、シャルルは物憂げに目を瞬かせた。
「私の身体は、もう二十年以上前から女に反応しない」
ディエナは思わず息を呑んだ。レナンから聞いた話とは全く違う。
「でも……それじゃあ、ニーナのお腹の子は……?」
「恐らくは街にでも恋人がいるのだろう。ニーナも、ここにいたいとは思うまい」
ニーナはシャルルとは別の男を必要としている。だから屋敷から出て行かせる。そこには何の感情も差し挟まれていなかった。
「あなたは子どもが嫌いだから、欲しくないんだと思ってたわ」
「嫌いで不要だ。子どもなど、無力で役にも立たない。だが陛下が私の後継をお望みなのだ。将軍位を代々私の子孫に継がせ、皇家と縁を結んで家系を繁栄させれば、帝国軍はより
そのために、皇帝は三人の側室を与えた。彼女らも努力はしてくれるし、シャルルもそのために薬を飲んではいるが、いまのところ効果はないらしい。そうとは知らぬ皇帝は、シャルルは側室たちを気に入らぬのだと勘違いして、今度は並外れて美しいシトリューカを輿入れさせたのである。
「残念だが、陛下のご期待には今後も添いかねるだろう」
シャルルはおもむろに首を振る。ディエナは無性に切なくなった。
「どうして、『できない』と分かっていながら、こんなことをするの? 皇帝陛下のためだから?」
いましがた経験した行為は、聞き知っていたものとはまったく違う。快楽を得たのはディエナだけだ。自分は満たされないのに、虚しくはないのか。
「無論その通りだ。だが……」
薄く笑みを浮かべたシャルルを、ディエナはもう兄に似ているとは思わなくなっていた。
「女が悦んでくれた日は、不思議とよく眠れるのだ。本当は将軍より男娼が向いているのだろうな」
シャルルは壁を向いて、浮かびかけた表情を隠した。その背中にも、細かい傷痕がたくさん残っている。
ディエナがシャルルに抱いていた恐れは嘘のように消え、代わりに幼く危うい同情の念が芽生えた。シャルルはイハールでもほかの誰でもなく、シャルルなのだ。
やがて静かな寝息が聞こえてきた。シャルルがここ最近毎日のように側室の部屋を訪れているのは、つまり眠れない夜が続いているということなのだろう。ちょうど、シトリューカを書斎に招くようになったころからだ。
――この人は、シトリューカの代わりに側室を抱いているのだわ。
それは推測ではなかった。女の勘とでも言うべき、無根拠だが確固たる自信に満ちた心の声であった。
――シトリューカ、本当にいやな女。私がこの人を救ってあげなくては……。
シャルルの背に裸の胸を重ねながら、ディエナは彼の代わりに眠れぬ夜を過ごさなければならなかった。
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