第十歌 月のごとくに心もめぐる・3
――なぜ自分が、こんなことに付き合わねばならんのだ。
突然の皇帝陛下の行幸に、街行く市民はみな驚き平伏する。ギオン皇帝が連れている護衛はわずか五騎。この日畏れ多くも陛下と
ヴァルカン将軍が
そのうえ今日は、ヴァルカン将軍への見舞の品を自ら探しに街へ出ると言って聞かない。政務は大臣たちに任せきりだ。そのくせ、大臣たちが考えた政策が気に食わないと後から理不尽に怒り、ひどいときは罷免しさえもする。
陛下の関心事は生まれてきたエリク皇太子と、美食と、美人――性別は問わない――との房事だけだ。その中にヴァルカン将軍も含まれているというから始末が悪い。
まったく恐るべき暗君である。馬上から注意深くギオザの大通りを見渡しながら、ザンチは皇帝に気づかれぬよう、胸に渦巻く不満をため息に混ぜて吐き出した。
ヴァルカンが襲われたおかげで、リオラント大陸北東への遠征が延期になったのはザンチにとってよいことだった。どうせなら中止にすべきだ、ただでさえ軍費が逼迫しているのだから。皇帝の命令なら何でも従うあのヴァルカンでさえも、これ以上の版図拡大は不要だと諫言したほどである。
ふとザンチは思い当たった。そういえば最近のヴァルカンは、どうも以前とは様子が違うようだ。
――もしや、先ごろ迎えたシトリューカ夫人の影響であろうか?
もとより皇帝ならびに帝国の損得しか考えない男であったし、いまもそれは同じだが、最近のヴァルカンが掲げるあらゆる軍事的方針からは、金銭や兵力といった「数」のみならず、そこで暮らす人々の「心」にまで気を配っているように思える。ザンチにとっては、歓迎すべき変化であった。
――ヴァルカンが焼け死んでくれれば一番よかったが。もう一度、私が手を出す必要はなさそうだな。
「……これ、ザンチ。ザンチよ」
考えにふけっているときに突然皇帝から声をかけられて、ザンチは慌てた。
「周囲を警戒するのも大事な仕事だが、私の話も聞いて欲しいものだな」
「これは大変失礼をいたしました、陛下。ええと……」
「お前に子どもはいるのか、と聞いておるのだ」
ギオン皇帝は怒るどころか上機嫌のようで、ザンチは安心した。
「十歳の息子と、七歳の娘がおります」
「可愛いか」
皇帝の問いかけに、ザンチは頬を緩めて「ええ、まあ」と頷いた。
「何しろ私の子ですからふたりとも不器量ですが、親から見れば可愛いものです」
「そうかそうか。よう分かるぞ」
皇帝がにこやかに頷いた。
「シャルルも早う、子に恵まれるとよいな。あやつは美丈夫だから、シトリューカ姫との子はさぞかし美しかろう。……そうだ、娘が生まれたら、エリクの
「それは、よいお考えで……」
露骨なヴァルカン
辿り着いた場所はギオザ城の北西、とある貿易商人の屋敷であった。ヴァルカンやザンチの屋敷の倍はあろうかという広い敷地内には、屋敷のほかに大きな蔵がある。リオラント大陸中、または海の向こうからありとあらゆる名品が集まる場所らしい。商人は皇帝一行を恭しく招き入れ、蔵へと案内した。
蔵へ一歩足を踏み入れた瞬間は目が眩むほどであった。純金の柄に獅子の頭が彫り込まれた宝剣、透明度の高いガラスで精緻に作られた女神像、大男のザンチでさえ見上げるほど巨大な銀熊の剥製。無骨者のザンチにも、いずれもとてつもなく高価なものであることはすぐに分かった。
その中からギオン皇帝は、純白の絹と光の加減で七色に輝く不思議な織物を選び、シャルルのためにそれぞれ羽織物と留め具に大きな翠玉をあしらった腰帯を仕立てさせることを命じた。臣民のほとんどが貧しく慎ましやかに暮らしているというのに、皇帝は贅を尽くして
――これが祖国ウルグリアを武力によって屈服させ、さらなる野心のために自分を引き抜いた宗主なのだ。
ウルグリアが帝国の属国となった後、ザンチが帝国軍に
「私は二君に仕える気はない。ウルグリア以外の軍服を着ることもない」
あのときも、ヴァルカンは皇帝を諫めていた。ザンチは信用できない、帝国軍には不要だと。
だがギオン皇帝は聞かなかった。「ギオークのために働くなら、いくらでも好きな服を着るがよい」と鷹揚に即答した男には、深慮のかけらもなかった。
帝国はヴァルカンのような優秀な人材のおかげでどうにか成り立っているが、その君主は命を懸けて奉じる価値のない愚君である。
だからザンチは、ひとりだけ違う軍装に身を包んでいる。その色は、燃えるように赤い。
* * *
いちどは闇に姿を隠した月がまた少しずつ横顔を覗かせて、ロザールの大広場に
ヴァルカン邸の下女レナンもまた、大広場に足を運んでいた。こないだの火事で気分が塞いでいたから、クロワの歌が楽しみで仕方なかった。シャルルに頼み込んで休暇をもらい、昼から舞台のすぐ目の前に陣取って月が出るのを待ち構えていたほどである。
やがて楽団の仲間とともに舞台上へと姿を現わしたクロワは、噂以上に素晴らしい歌い手であった。神秘的な美貌と、こぼれる星屑の煌めきにも似た竪琴の旋律。そして何よりギオザ女性を虜にしたのは、愛を歌う甘く切ない歌声である。歌に合わせて舞う年増の踊り子や、ほかの奏者はほとんど目に入らない。女たちはクロワの奏でる調べに酔いしれ、歌詞に心を寄せ、この美しい男性に想いを寄せられるのはいったいどんな美女だろうと羨む。
レナンには、クロワにぴったりの相手を容易に思い描くことができた。うちの奥様、シトリューカ様くらい綺麗な人なら、クロワの隣に立っても見劣りするまい。なぜかわが事のように誇らしげな気分で、クロワに惜しみない拍手を送る。
「見事な演奏であった! 褒めてつかわす!」
楽団を取り囲む群衆の遥か後ろから、よく響く声がした。まるで波紋が広がるように、人々が次々と平伏していく。
騎乗しているその人の姿を見て、レナンも慌ててぬかずいた。そこにおわすのは、お供を連れた今上帝ギオンだったのである。
「もっとそなたの歌を聴きたい。どうだ、わが城へ来て演奏せぬか」
レナンは頭を下げたままで会話を聞いていた。畏れ多くも皇帝陛下直々のお招きであるというのに、クロワは何も答えない。
「ええ、ええ、それはもう是非とも……」
代わりにへりくだった声を上げたのは、後ろにいた笛か太鼓の男だろうが、陛下に「そなたらはいらぬ。この竪琴弾きだけでよい」と冷たくあしらわれている。
「陛下。ご無礼をお許しください。このクロワは月の出る晩に歌う以外、言葉を話せないんです」
割って入った女の声は、年増の踊り子だろう。
「なんと、そうであったか。この世には不思議な病があるものなのだな。ならば月夜に城へ招こう」
「畏れながら、陛下、お城よりも、もっとクロワが歌うのにふさわしい場所がございます」
「ほう、申してみよ」
「はい。ヴァルカン将軍閣下のお屋敷でございます」
「ええっ!」
レナンは思わず声を上げてしまった。皇帝陛下含め、人々の視線を一身に集めてしまった。恥ずかしさでいっそう身を縮める。
「
「おお! おお! それは良い心がけだ! 美しい音楽を奏でる者は、心も美しいのだな。よかろう、シャルルには私から使いを出しておく」
続いて、レナンにとって耳を疑う一言が発せられた。
「シャルルも若い頃はよく竪琴を弾いて歌っておったものだ。クロワよ、お主にも負けず劣らずの名手であったぞ」
「えええっ!」
レナンはまたも驚きの声を上げ、衆目を集めてしまったのであった。
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