第五歌 月夜にひびく竪琴の調べ・2

 採石場の空は、春でもすっきりと晴れることがない。絶え間なく土埃が舞って見通しの悪い視界は、過酷な労働を強いられている奴隷たちの将来を暗示しているかのようであった。

 ここは採石場リジェルド。帝都ギオザからは、南方に丸一日ほど馬を歩かせた距離にある。

 山から石を切り出し、運び、成形するのは奴隷たちの役目であった。彼らの髪や目や肌の色はさまざまだが、共通点がひとつだけある。みな帝国との戦に敗れて連れてこられた捕虜たちだ。もとの国では雑兵ぞうひょうだった者も、将軍だった者も、または王族だった者も、ここでは等しく奴隷として鞭打たれている。

 わずかな休憩時間には、奴隷同士で言葉を交わし労をねぎらい合うこともあるが、不思議なことにみな偽名を名乗るのが暗黙の了解となっている。祖先から受け継いだ家名を、みじめな奴隷の身分で汚したくはないものだ。祖国を失った敗軍の将兵は、本当の名前さえも奪われていた。

 奴隷の中に、ウェルケと名乗る男がいた。金髪碧眼で色の白い、引き締まった体つきの男であった。年のころはまだ三十路手前くらいで、奴隷たちの中では比較的若い部類に入った。彼は寡黙でよく働くうえにギオーク語を話せる数少ない奴隷だったため、監視役の将官に一目置かれて石材の運び役に選ばれた。髪や髭がぼさぼさに伸びてはいても、ウェルケが高い水準の教育を受けた軍人であったことは明らかであった。

 ウェルケが過酷な奴隷仕事に弱音のひとつも吐かないのは、もちろん生来の性分のためでもあるが、何より彼が自らに罰を課しているためであった。彼は敗軍の将、しかも自らの主君を守れなかったのだ。

 ――なぜあのとき、私は帝国軍の通過を見逃してしまったのか。

 戦に敗れてからもうふた月ほどが経つというのに、ウェルケは毎日後悔している。

 始まりは王城からの伝書鳩であった。いわく、「帝国軍から領内へ入りたいとの申し出があった。これは帝国軍がギオザへ帰還するための行路であって、わが国及び周辺諸国への武力行使を目的としたものではないから看過せよ」「帝国軍の通過を確認したら、狼煙を上げて知らせよ」と。当時国境の守将であったウェルケは不審に思いつつも、国王の名の下に命じられていたために従ってしまった。

 事実、それは国王から発せられた命令ではあったのだ。しかし国王も、狡猾なる帝国軍に騙されていた。緊急事態を報せる赤い花火を見たときには、もう何もかもが手遅れだった。ウェルケは軍を率いて急行したが、帝国軍はもう彼の主君である王子を討ち取っていた。その後帝国軍はあっという間に王都を占領してしまい、国王は帝国の裏切りを知って毒杯をあおった。

 ウェルケが仕えていた王子は、ヨナディオという名前である。そしてウェルケは、元の名前をナイトハルト・ミゼルといった。かつてはレアゼン砦の守将を務め、シトリューカとともに戦ったゼアテマ軍の将軍である。

 ウェルケというのは、正確に言うとミゼルの「偽名」ではない。名を聞かれたとき、とっさに出生時の家名を名乗ったのだ。

 ミゼルはもともとゼアテマ人ではなかった。とある小国で貴族の末っ子として生まれたのを、帝国の侵略から逃がすためにゼアテマの武門ミゼル家へ養子に出されたのである。

 案の定、彼の祖国は帝国に亡ぼされた。もしもゼアテマが自分を引き取ってくれなければ、実の両親や兄弟どもども帝国に殺されていたに違いない。義理堅いミゼルはゼアテマ王家に深い恩義を感じていた。

 特にミゼルが主君と慕っていたのは、四歳年下の王子ヨナディオである。王の嗣子という身分、文武両道どころか音楽にまで秀でた才能、そして清らかに輝かんばかりの容姿を備えながら、謙虚でまるで驕ることがない優れた人物であった。

 ヨナディオ王子は、隣国の王女シトリューカとの婚約が決まっていた。心優しき乙女でありながら「戦場の女神」と呼ばれるほどの智勇をも兼ね備えた美しい王女の輿入れは、次代のゼアテマに輝かしい栄光をもたらすだろうと、ミゼルは信じていた。

 それなのに、ゼアテマは帝国に亡ぼされ、ヨナディオ王子は帝国の将ヴァルカンによって殺されてしまった。シトリューカ王女も囚われて、いまやヴァルカンの正室であるという。――帝国兵たちがそう話しているのを偶然聞いたとき、ミゼルはさらなる絶望の淵に叩き落とされた。

 ――あの可憐でお優しい姫が、慰み物のように帝国の将に与えられるとは。

 ミゼルはシトリューカの美しい横顔が忘れられない。彼女が微笑むと、天上から光が差し込むかのように感じられた。ミゼルは独身であったが、彼女を自分のものにしたいと考えたことはない。あまりに畏れ多いことだ。主君の許嫁であり、決して手の届かぬ高貴な女性だ。将としてゼアテマ王妃になった彼女を守ることが、ミゼルにとって最上の栄誉であった。

 あの日、シトリューカが狼煙を見て援軍に駆けつけようとしたのは明らかであった。ミゼルらレアゼンの将兵を助けるために罠に落ちたのだ。そのことが、ミゼルを強く責めさいなんでいた。シトリューカが望まぬ結婚を強いられたのも、元を正せば自分のせいなのだ。

 ミゼルが奴隷ウェルケとして命じられた石材の運び役は、奴隷たちの間では羨望の的であった。石を運ぶといっても実際に馬車を引くのは驢馬ろばだ。運び役は兵士と一緒に荷台の上で一日中揺られ、ギオザ市内の建築現場に着いたら向こうの担当者とやり取りするだけでいい。石を切り出して運ぶ仕事に比べれば、はるかに楽である。

 さらに、もしもうまく兵士たちに気に入られれば、夜にはロザールの歓楽街で酒と女をあてがってもらえるし、兵士の機嫌が良ければこっそり逃がしてもらえる。帝国兵の中にも、よその国から連れてこられた軍人が格下げになった者がいて、そういう兵士はえてして奴隷に同情的なのだ。運び役に選ばれた後、「道中で腹を下して死んだ」ことになっている奴隷を、ミゼルも何人か知っている。

 出発の日、ミゼルは奴隷仲間たちから祝福され、嫉妬され、「元気でな」と再会を期しない挨拶をされてから馬車へ乗り込んだ。

 けれどもミゼルは、奴隷身分から解放されたいとは思っていなかった。これは罰なのだ、と彼は考えていた。主君と「戦場の女神」を守ることができなかった、不甲斐ない自分への。

 ミゼルが変心したのは、馬車がギオザ郊外の小さな集落にさしかかったときだった。

 空にはほぼ丸くなった月が出ていた。煉瓦造りの家々に囲まれて、集落の中央には井戸がある。円形の広場になったその場所に、旅芸人らしき四人組が立っている。女の踊り子が一人、ほかの三人はそれぞれ違う楽器を手にしていた。

「見ていくか?」馭者を務める兵士が言う。

「いや。あんな年増の踊り子、興味ねえよ」ミゼルの隣で、別の兵士が答えた。

「それもそうだな」

 膝を抱えて俯いたままのミゼルには、旅の楽団などろくに目に入っていなかった。それでも彼らが何の前口上もなしに演奏し始めると、その音色はミゼルの耳にもいやおうなしに飛び込んでくる。

 太鼓と笛に次いで、竪琴がつま弾かれたとき、ミゼルは思わず顔を上げた。流れ始めた旋律が、懐かしいゼアテマの歌曲だったからだ。何より、歌い手の甘く優しい声を、忘れられるはずがない。

 ――ヨナディオ王子!

 馬車はゆっくりと通り過ぎていく。歌声に惹かれた住民たちが、ぞろぞろと家から出てきている。ミゼルはしかと歌い手の顔を見た。いますぐ馬車を止めてくれと言いたかったが、奴隷身分の自分にその権利はない。ヨナディオの歌声が、弦の震えが、遠ざかっていく。

 馬車から身を乗り出さんばかりのミゼルに、兵士たちが驚いて声をかける。

「お前、泣いてるじゃねえか。そんなに女に飢えてんのか? よく見りゃあいい男なのに、可哀想になあ」

「いままでお前はよくやってくれたよ、ウェルケ。明日この仕事が終わったら解放してやるから、もうちょっと辛抱してくれよな」

 兵士たちが勘違いしてくれたのは何よりであった。いまミゼルの脳裏に巡っている考えは、かなり危険なものだったからである。

 ――ヨナディオ王子は、生きている。何とかしてシトリューカ様にお知らせせねば。……そして、ヴァルカン将軍の下からお救いしてさしあげねば。

 翌日、奴隷のウェルケは、リジェルドへの帰路にて突然「腹を下して死んだ」のであった。

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