第五歌 月夜にひびく竪琴の調べ

第五歌 月夜にひびく竪琴の調べ・1

 やあ、今日はずいぶん早いじゃないか。待たせちまったかい?

 あんた、吟遊詩人になったヨナディオ王子がどうなるのか、早く知りたいって顔してるね。

 もちろんその話もするが、今日はもうひとり、別の男の話もしよう。シトリューカを大切に思う、もうひとりの男の話を……。



   戦に敗れ主を失い

   

   うちひしがれる男は出会う


   気ままに生きる踊り子の舞と


   月夜にひびく竪琴の調べ



 戦乱の嵐吹き荒れるリオラントにも、戦とは無縁に毎日を自由に楽しく生きている人間はいる。

 マール=ジョー楽団の一座は、祖国を持たない。踊り子で女座長のマール=ジョーも、筒太鼓のバンチェッルも、笛吹きのグライスも、みな流れ者である。

 楽団とはいっても、旅をしながら道中で仲間を増やしたり減らしたりと適当だ。去る者は追わないが、来る者はマール=ジョーによって厳しく選ばれる。気まぐれな座長マールを踊る気にさせられない奏者など、彼女の仲間には必要ないのである。

 彼らは自分がどこで生まれたのかも知らないし、いま何歳なのかもまるで興味はない。大陸中を放浪しながら毎日踊り、楽器を奏でて生きていく、ただそれだけだ。止めるのは死ぬときか、足腰が立たなくなるときだ。だからどこの国がどこを亡ぼそうとも、彼女らには関わりのないことなのだ。

 少し前までは、竪琴弾きのキードがいた。三十年以上前にマールが踊りを始めたときにはもうよぼよぼの爺さんだったが、ボンサンジェリーとギオークの国境――そんなものはもうなくなっていたのだが、流れ者の彼女らが知るわけもない――近くの街道沿いでついに死んだ。朝テントから出てこないので覗いてみたら、愛用の竪琴を抱きしめたままで冷たくなっていたのである。

 マール=ジョーは仲間たちと一緒に、野営したその地に竪琴と一緒に埋めてやった。墓標はない。長年連れ立った楽団の仲間が死んでも、彼女らは涙を流さない。人間は死ぬ。当たり前だ。

 とはいえ、やはり伴奏から名手キードの竪琴が消えたのは寂しい。なかなかマールの興が乗らないし、筒太鼓と笛だけではやはりもらえる投げ銭も少ない。新しい奏者を見つけることは、楽団の急務であった。

 クロワに出会ったのは、ちょうどそんなときであった。

 キードの死後、楽団はビノシュやプリミィといったギオーク南西部の地方都市に立ち寄り、何人か竪琴を抱えた旅芸人や吟遊詩人を見たが、キードの代わりに勧誘したくなるような弾き手はいなかった。

「まったく、どいつもこいつも、ろくなもんじゃない」

 プリミィ郊外の河原に野営地を定めた、三日月の夜のことだった。

「あいつら小手先で器用に弦をかき鳴らして、自慢の歌声をひけらかしてるだけさね。違う。あたしが欲しいのは、魂なんだよ! ただ上手いってだけじゃダメなんだ!」

 マールが焚き火を見つめながらくだを巻いている。彼女の束ねた赤毛と赤褐色の肌が、炎と酒のせいでさらに赤い。男たちふたりは苦笑いだ。プリミィで革袋いっぱいに買った酒は、すっかり座長に独占されてしまった。

「でもまあ、芸人や吟遊詩人なんて、だいたいがそんなもんじゃねえの。あいつら、技芸を極めるなんてのは二の次三の次で、行く先々で女をたぶらかせりゃそれでいいんだ。姐御は理想が高すぎんだよ」

「バンチェッルの言う通りだぜ。なあ姐御、ちょっとくらい妥協したらどうかね? プリミィの広場で歌ってた金髪のやつ、なかなかいい男だったじゃないか。いまから引き返して連れてこようぜ。あいつと一緒にギオザに行けば、貴族の奥様方からおひねりがたんまりもらえるだろうよ」

「冗談じゃないよ!」

 マールが怒鳴った。もうかなり酒が回っている様子だ。

「あたしは楽しいから踊ってるんだ。金がほしくてやってるんじゃないんだよ! 楽しくないなら一ステップだって踊らないね! いいかいグライス、今度同じことを言ってごらん! あんたもキードみたいに笛と一緒に埋めてやるからね!」

「はいはい、どうもすみませんでした」

 グライスもバンチェッルも、もう長い付き合いだ。酔っ払ったマールの扱いには慣れている。

「……そうは言っても、魂も上手さも兼ね備えた竪琴弾きなんて、そう簡単に見つかるわけ……」

 バンチェッルが言いかけたとき、その音色が聞こえてきた。

 三日月が涙をひとしずくこぼして、森の中の青く透き通った湖面を波立たせた――それがマールの見た光景であった。もちろん、いま彼女の目の前には浅く淀んだ泥河の流れがあるだけだ。どこからともなく流れてくる竪琴の音色が、マールに幻を見せたのである。その夜空では、星々は月を囲んで慎ましやかに瞬いていた。

 やがて歌声が重なった。だがマールは、それを人間の声として聴かなかった。蒼々たる樹海に絡み合う枝葉をすり抜け、こっそりと世界の秘密を打ち明けに来た風の精の導きとして聴いた。

 マールの足は声の主へと――月が輝く方角へと向かって自然と走り出していた。わずかな月光を頼りに裸足のままで、さくさくと砂利道を蹴る。その音すら音楽の一部に融け込むほどに、マールは天性の踊り手であった。

 近づくにつれて、歌声の紡ぐ言葉がはっきりとマールの心へ届く。ゼアテマ語だ。

 竪琴の調べはうねりながら徐々に激しくなり、遠く離ればなれになってしまった愛する人を案じ、もう一度会いたい、この手に取り戻したいと切実に歌う。それはやはり、人間の歌でしかあり得なかった。

 川岸の平たい岩に、ひとりの吟遊詩人が腰かけていた。駆け寄ってくるマールと一瞬だけ目が合う。歌を止めるな、続けろ。マールは瞳でそう訴えかけた。ふたりはそれだけで通じ合った。

 吟遊詩人の竪琴に合わせて、マールは踊り狂った。砂を蹴って跳躍し、赤毛を振り乱してきりきり回り、それでもなお天に届かぬ祈りを嘆いて跪いた。尖った石片が踊り子の足裏を傷つけても、舞が妨げられることはない。彼女が諸手を広げて頭上の三日月を仰いだとき、吟遊詩人の紡ぐ最後の一音が冷えた空気を震わせて消えた。

 マールの胸の中で、激しく心臓が脈打って全身に血を巡らせている。これだ。これこそが、あたしが求めていた音楽だ。

 全身で余韻を味わい尽くして立ち上がり、マールは素晴らしい歌い手へ笑顔で振り返る。彼は竪琴を抱えたまま、突然現れた踊り子をぼんやりと見ていた。

「あたしらと一緒に来なよ」

 吟遊詩人はきょとんとしたまま、マールを見つめている。

「一緒に行くか、行かないか、どっちだい?」

 それでもなお無言のままである。唐突すぎる申し出に声も出ない――というわけではなさそうであった。

「なんだい? 言葉が分からないのかい? それとも、もしかしてあんた、喋れないのかい?」

 こくりと頷く。

「ついさっきまで、あんなに歌ってたのに?」

 もうひとつ、こくり。

 バンチェッルとグライスが、松明を灯してようやく追いついてきた。

「姐御、こいつは止めとこうや。確かにすさまじい弾き手だが、いくらなんでも胡散臭すぎるって」

「見ろよ、この顔。絶対まともな人間じゃないだろ」

 松明が吟遊詩人を照らした。

 作り物のように整った、血の気のない青い顔。どの国の民にも似ない鳶色とびいろの長髪。夜の寒さを意に介さぬのか、古びた外套の下は皮の胸当てとズボンだけで、贅肉のない腹部はむき出しになっている。グライスはそこに深々と刻まれている、横一文字の傷痕を指さした。

「この傷じゃ、普通はらわたが飛び出て死んじまうだろ? きっとこいつは悪霊か亡霊の類だぜ」

 そうだそうだ、とバンチェッルも口を揃える。悪し様に言われているのに、吟遊詩人はうつむくだけで怒りもしない。確かに彼らの言うとおり、生きた人間らしさに欠けた反応ではあった。

「悪霊? 亡霊? 結構じゃないか」

 しかし、それをものともしないのがマール=ジョーという女である。

「こいつは歌うんだ、魂を込めて歌うんだよ。あたしにとってはそれがすべてだ。生きてるか死んでるかなんて、どうでもいいじゃないか。むしろ死んでなお歌ってるとしたら最高だね。あんたたちは自分の楽器に、どれだけ命を懸けてる? 死んでもやめられないほど打ち込んでいるかい? 私は死んでも永遠に踊り続けたいよ。たとえこの足が透明になって、大地を踏み鳴らせなくなってもね」

 マールの言葉は常識はずれだったが、情熱だけはこもっていた。勢いに押された男ふたりは、もう説得を諦めて肩をすくめるしかできない。吟遊詩人の意志は全く確認されなかったが、首を横に振らないところをみると特に異論はないらしい。

「よーし、決まりだ! 今日からあんたは、マール=ジョー楽団の歌い手兼竪琴弾きだよ! ええと、名前は……」

 吟遊詩人は言葉が話せないので、名前が分からない。マールは頭を掻きながら夜空を見上げた。

「……三日月クロワだ。ギオークの古い言葉だよ。どうだい、いい名前だろ?」

 名付けられたばかりの「クロワ」が、無表情のままでこくりと頷いた。

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