第三歌 風に散りゆく乙女の嘆き
第三歌 風に散りゆく乙女の嘆き・1
三度目の夜が来たね。
今日あんたに聞かせるのは、王女シトリューカの運命が大きく動き出すくだりだよ。何しろ、ついに……おっと、野暮な前口上はよしておこう。
何が起きたのか、ただ言葉で話して聞かせるのは簡単だ。でも、わたしがあんたに聞かせたいのは、物語なんだ。それはよく似ているようで、まるで違うものだよ。
わたしは心を尽くして語る。あんたもどうか、心して聞いておくれ。
暗き森の魔女は見ていた
すべては山の上のできごと
ふたりを引き裂く悪魔の剣と
風に散りゆく乙女の嘆き
それまでのシトリューカにとって、ヨナディオに会えるのはいつでも喜ばしいことであった。
十年前、まだふたりが幼かった頃、ゼアテマ王室がサン=セヴァチェリン王室に表敬訪問した際に初めて出会ったときには、ふたりが結婚することはほとんど決まっていた。サン=セヴァチェリンのブルゼイ王とゼアテマのエガーテ王は大変親しい間柄で、ゼアテマ王家にヨナディオが生まれたとき、もしサン=セヴァチェリンに王女が生まれたら嫁がせようと約束していたのだそうだ。シトリューカが生まれ、次いで第一王子のアルディミールが生まれたことによって跡継ぎの心配もなくなり、約束はいっそう現実的なものとなった。
大人たちが将来の婿を勝手に決めてしまったのに、シトリューカは少しも嫌ではなかった。どうしてだろう、とシトリューカは思い返す。
五つ年上のヨナディオは、出会ったときから優しかった。月夜には少し青みがかって見える艶やかな髪や、清らかな泉の色をした瞳が好きだった。何もかもを包み込むような彼の歌声と、細くて長い指が奏でる竪琴の響きも心地よかった。そのうえ意外に武芸にも秀でていて、人形遊びや絵本よりも剣術や馬術、軍学書に興味を示したシトリューカとも気が合った。
ヨナディオの好きなところを探せばいくつも見つかる。けれどもシトリューカは、彼に惹かれた本当の理由は、どんな理屈でも説明できない気がしていた。それでもあえて言葉にするなら、そう、月が必ず夜をまとって現れるように、ふたりは初めから切り離すことのできない
そのヨナディオがいま、目の前にいる。しかも、自ら結婚を申し込みにやってきたのだ。けれどもシトリューカは喜ぶどころか、むしろ不安の底へ沈んでいた。
夕餉がすんだ後、ヨナディオが現れたと聞いたときは、シトリューカは初め嘘ではないかと思った。シトリューカの居城、サン=セヴリャチ城の謁見の間にてその姿を見るまでは。
謁見の間は円形の部屋で、床には満月と星の巡りを描いた毛織の絨毯が敷かれている。ヨナディオはその中央で、玉座の父ブルゼイ王と傍らに立つシトリューカに向かって跪いていた。三人以外には誰もいない。王が人払いを命じたらしい。
レアゼンでともに戦ってから、十三日しか経っていない。ヨナディオは一旦ロンドシアへ戻ってからすぐここへ来たのだというが、ロンドシアからサン=セヴリャチまでは通常四、五日はかかる道程である。かなり無理をして早馬を飛ばしたことが窺い知れた。ブルゼイ王がまずは一晩ゆっくり休んではどうかと勧めたが、ヨナディオは最低限の礼儀のために行水して身を清めただけで、すぐに王やシトリューカと話したいと懇願した。普段は落ち着いた物腰のヨナディオには珍しく、切羽詰まった表情であった。
それは確かに求婚には違いなかった。しかし誠実なヨナディオは、自国ゼアテマの置かれている状況を包み隠さず話した。ギオーク帝国は突如としてボンサンジェリーを呑み込み、次はゼアテマを虎視眈々と狙っている。弱いゼアテマにできることは、サン=セヴァチェリンとの連携を強固にして、帝国を牽制することくらいしかない。そのために平和を待って延期していたはずの結婚を、掌を返して申し込みに来たのだ、と。
つまり、ゼアテマはシトリューカとさらなる援助が欲しいと言っているのである。
シトリューカの胸の内には、ヨナディオに言いたいことがいくつも湧き起こっていたが、しかしまずは国王たる父の言葉を待たねばならなかった。
ブルゼイ王は、うむ、と短く唸ったきり、渋い顔をして黙っていた。恥も外聞もない求婚に怒っているのか、憐れんでいるのか、娘のシトリューカにも分からない。ヨナディオも跪いたままで震えている。老年にさしかかっている王の無言は、恐ろしいほど厳粛であった。
「ヨナディオ」
ようやく、ブルゼイ王が口を開いた。
「この結婚に、君自身は納得しているのかな?」
その声は意外にも穏やかであった。王は娘の結婚相手ではなく、友人の息子に語りかけていた。
「私は……」
ヨナディオは迷いながら言葉を紡ぎ出す。
「できることなら、もっと別の形で結婚を申し込みたかったと思っています。……しかし、率直な気持ちを打ち明けさせていただけるなら、私自身もシトリューカを必要としているのです。ボンサンジェリー滅亡の報を聞いてからここへたどり着くまでの道中は、不安が胸に渦巻いて眠れぬ夜を過ごしました。そんな夜は、隣にシトリューカがいてくれたら、どんなに心が安らぐだろうと考えずにはいられませんでした」
そこまで言って、ヨナディオは一瞬だけシトリューカへ視線を送った。すまなさそうに寄せられた眉が、彼の明るい水色の瞳を翳らせていた。
「傾きかけた国の王子が姫を嫁にもらい受けようなど、言語道断の申し出と分かっています。それでも、もし許されるならば、私はシトリューカに支えられて生きていきたいのです。……これはゼアテマ王子としての願いではなく、ひとりの男のわがままです」
シトリューカは思わず頬を赤らめた。青年は思いつめた瞳でブルゼイ王を見つめている。三人だけの謁見の間に、再び重い沈黙が訪れた。
「……君もエガーテも、どうも何か勘違いしているような気がするので、念のために言うのだが」
やがてブルゼイ王が口を開いたとき、彼は同年代の隣国の王を呼び捨てにした。
「シトリューカが嫁に行こうと行くまいと、わがサン=セヴァチェリンはゼアテマに援軍を送り続けるだろう。もしもゼアテマの土地が帝国の黒旗に染め上げられたなら、きっとわが国も同じ運命を辿るからだ。私はあくまでも国王として自国を守りたいのであって、友人の
ヨナディオが恥じ入ってうつむくと、ブルゼイ王は玉座から離れて彼の傍らに立った。
「だが、シトリューカの願いは私とは違う。父親としての私は、それを叶えてやりたいと思う」
王は娘のほうへ振り向いて微笑む。
シトリューカは父の隣へ歩み出た。そして顔を上げたヨナディオの瞳を覗き込み、いまにも涙のこぼれ落ちそうな目で言った。
「言ったはずよ。何があっても、あなたの傍で戦い抜くと」
「シトリー……」
シトリューカと見つめ合ったままで、ヨナディオはゆっくりと立ち上がる。やれやれ、と父王は苦笑いをこぼした。
「年寄りは退散しよう。ふたりとも、あまり夜更かしをするでないぞ」
ブルゼイ王が謁見の間を去り、その扉が閉まりきった途端、ふたりはどちらともなくお互いの名を呼び、腕の中へ飛び込み合った。
二つの唇は柔らかく絡まり、甘い言葉は生まれるより早く相手の中へ注ぎ込まれる。シトリューカは無意識のうちに、頬に触れるヨナディオの手から手袋を奪っていた。けれどもその手と肌とが、舌先と舌先とが触れ合った瞬間に、ヨナディオは自ら身を離してしまった。
「これ以上は、いけない」
ほんの少し身体が離れただけなのに、引き裂かれるように苦しい。「でも」とシトリューカが言いかけると、今度は強い力で抱きすくめられた。そのとき初めて、ヨナディオが清潔な礼装の下にどれほどの熱をたぎらせているかを知ったのである。
「ただでさえ失礼な求婚をしてしまったんだ。ほかのことについては、きちんと礼節を守りたい」
礼節、という言葉に目が覚めた。いまのいままで、シトリューカは王女としてのたしなみどころか、乙女としての恥じらいすら忘れ去っていた。ただヨナディオとひとつに溶け合いたかった。いままでヨナディオの腕の中で感じていた穏やかな安らぎとは違う、野蛮で直線的な願望に身を任せたかった。
急に恥ずかしくなって、シトリューカは「そうね」とぎごちなく笑った。
「……でも、もう少し、こうしていたいわ」
ヨナディオは「仕方ないな」と答えて、優しく王女の髪を撫でた。愛しい人の胸の奥で、心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。
夫婦になった男女が何をするのかを、シトリューカは十二になった年に教えられている。そうすることで子どもも授かる。ほかの動物たちと同じ仕組みなのだと。
初めて知ったとき、なんと恐ろしく下品な行為だろうと
自分にも、野山の獣と同じ衝動が宿っているのだ。シトリューカはそのことに驚き、少し傷ついた後で、いや当然だと腑に落ちた。自分は人間で、ひとりの女だ。人の口に上るような女神などではない。
その確かな証左を、今宵ヨナディオというひとりの男に触れて得たのであった。
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