第二歌 闇におとなううらぎりの罠・3

 エガーテ王の舌には、勝利の美酒さえも水のように空虚であった。

 ロンドシア城二階の大広間では、戦勝祝いと将兵へのねぎらいのための宴が盛大に催されていた。王の眼前には国内外から集めた多種多様な名酒がずらりと並び、全てを味見したならたとえ一口ずつでも泥酔してしまいそうなほどである。厨房からは骨付き鹿肉のかまど焼きが運び込まれ、銀皿の上で香草と脂の混じり合った匂いを立てている。

 本当はこんな贅沢をする余裕はないのだが、豊かだった旧時代からの風習はなかなか改めがたい。突然祝勝の宴を取り止めれば、軍の士気にも影響を及ぼしかねない。これも戦費のうちと、王は己に言い聞かせた。

 エガーテ王はほかの大臣や貴族、将兵たちよりも二段高い玉座にゆったりと腰かけ、辛口の蒸留酒をわずかずつ傾けていた。その背後には、群青の地に三日月と剣を配したゼアテマ軍の紋章旗が掲揚され、ここにいる誰もがそれを見上げて杯を掲げている。しかし王は、とても一緒に浮かれ騒ぐ気分にはなれなかった。

 ――「姫を守りたければもっと兵をよこせ」などと要求するようでは、同盟国の友誼に悖ります。

 ゼアテマはヨナディオとシトリューカの結婚を利用して、サン=セヴァチェリンにさらなる軍事協力を求めている。利己的で図々しく、また惨めな申し出であることは、息子に言われずとも承知の上であった。だとしても、いまのゼアテマには同盟国に頼ることしかできないのだ。

 ヨナディオの一途さは、父王にとって青臭く煩わしくもあり、またどこか羨ましくもあった。

 エガーテ王の妃、ヨナディオの母スカーリアは、次子を身ごもる前に胸の病に冒されて亡くなった。彼女はとある小国の姫だったが、その国は帝国に亡ぼされていまはもうない。あらかじめ定められた結婚で、初めて顔を合わせたのは婚礼の日であった。ヨナディオの母だけあってたいそう美しかったが、愛していたかどうかはもう記憶が定かでない。ただ妻が死んだとき、自分がひどく泣いたことだけは覚えている。

 ヨナディオも、両親同様決められた相手と結婚するだけである。ただ違うのは、サン=セヴァチェリンとは国交が盛んで、シトリューカ王女と幼少期から一緒に過ごす機会が多かったことである。

 ふたりは傍目はためにもそれと知れるほど強く惹かれ合い、いつか訪れる約束の時を心から望んでいた。もし戦乱の世でなかったなら、とうに夫婦になっていたはずだ。結婚は先送りになったものの、シトリューカ王女は「戦場の女神」としてゼアテマとともに戦ってくれている。

 ありがたく思う一方、エガーテ王には忸怩じくじたる思いもあった。この国は、サン=セヴァチェリンとシトリューカの助力なくば生き残れない弱国だ。外敵を追い払うたび、「戦場の女神」があたかも魔道で敵を化かしたような策を当てるたび、王はそれを思い知らされるのだった。

 エガーテ王は頭を緩く引かれるような酔いを覚えた。あまり良い気分ではない。外の風に当たりたくなって、近衛兵の一人も連れずにバルコニーへ出た。

 ゼアテマは温暖な国だから冬でもなかなか雪は降らないが、さすがにつむじ風が吹くと身が縮む冷たさである。夜空を見上げると、少し前まで満ちていた月が欠け始めていた。

 サン=セヴァチェリン王家と違って、ゼアテマ王家は月神をさほど敬っていない。むしろ、なぜ月は闇を連れてくるのだろうかといぶかしく思う。この世が常に明るいままなら、そのほうがずっとよいものを。

「陛下、ご気分はいかがですか?」

 背後から男の声がした。いくらか甘さを含んだ、耳に染み入る低い声だ。エガーテ王は振り返って身構えた。男の言葉にはギオーク風の訛りがあったからだ。

 黒いローブをまとった、すらりと背の高い男だった。フードの下からのぞく黒い前髪はからす濡羽ぬればのように艶めいて、月夜の暗黒とはまた異質である。まるで闇が人間の形をとって顕現したかに思えるほど、現実離れした禍々しさであった。

「何者だ。顔を見せよ」

 エガーテ王は威厳を保ったまま命じた。

「これは失礼」

 男は袖から白い両手を出して、フードを脱いだ。その顔を見たとき、エガーテ王は思わず顔をしかめてしまった。

「このような醜い姿で、陛下の御前ごぜんに参上する無礼をお許しください」

 男は赤い唇を曲げて微笑んだ。

 いや、むしろ男は美しいのだ、ぞっとするほどに。目も鼻も口も、すべての造作ぞうさくが神の手によって整えられたかのように。特に満月と同じ色をした瞳は、我こそは闇夜の支配者と言わんばかりに輝いていた。口元にわずかに皺が浮かんでいるところを見ると、もう若者と呼べる年齢ではなさそうだが、この男は寄る年波さえ服従させて色気を増していた。

 ヨナディオのような清廉な美貌とは違う。男の顔に染みついているのは、危うくて罪深い人生を送ってきた人間の妖艶さである。

 ただ、惜しむらくは、男の顔の左半面が赤黒くただれていたことである。どうも火傷の痕らしい。それさえなければ、彼は非の打ち所がない美男子だったろうに。

「この国の人間ではないな。どこから入ってきた」

 王の問いかけに答えずに、男は白い手をかざした。

「ギオーク帝国軍の使者として、早馬を飛ばして参りました。国境の通行証も所持しておりますよ。もし私が帰ってこなければ、ボンサンジェリーにいる本隊がここへ探しに来るでしょう」

 招かれざる客でありながら、男はエガーテ王を脅している。なんという大胆不敵さであろう。

 この男がただの使者であるはずがない、と王は直感したが、名を問う勇気が持てなかった。

 男は懐から麻紐で巻かれた書状を取り出し、エガーテ王に渡した。中身を読む王の顔がみるみる赤く染まっていく。

「いかがでございましょう? 陛下」

「……話にならん」

 エガーテ王は書状を足元へ投げ捨てた。そこに書かれていたのは、王にとって、またゼアテマにとって、まるで受け入れられない内容だったからである。

「帝国のために何かをしてくださいと申しているのではありません。、ただそれだけのお願いです。我々がサン=セヴァチェリンへ軍を進める際に、黙ってゼアテマ領を通過させてくださるだけでよいのです。ご協力いただけるなら、わが帝国軍は未来永劫ゼアテマの独立を守る楯となりましょう」

「馬鹿な。私に同盟国を売れと言うのか」

「同盟国?」

 男は長身を折り曲げて、書状を拾い上げた。

「サン=セヴァチェリンにとって、貴方がたと同盟していることに何の利点がありましょう? ゼアテマのために援軍を動かして、国費をいたずらにしているだけではありませんか。率直に申し上げましょう、陛下。サン=セヴァチェリンにとって、ゼアテマとの同盟が重荷になる日はそう遠くありません。いつか必ず、彼の国は貴方を裏切ります」

「無礼な!」

 怒りに任せて振り上げたエガーテ王の手は、しかし男の頬を打つ前に遮られた。男は強い握力で王の手首を掴みつつ、なおも笑みを絶やさない。黄金色の瞳が有無を言わせぬ迫力でぎらりと光った。

「我らがギオーク帝国軍にお任せください。ときには裏切られる前に裏切ることも、国を守るためには必要な判断です」

 陛下、と呼びかける声が大広間の中から聞こえた。

なにとぞご賢察のほどを」

 近衛兵が王を探してバルコニーへ出てくる前に、男は一礼して闇へ紛れてしまう。

 再び手の中に握らされた書状を、エガーテ王は拒むことができなかった。

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