第二歌 闇におとなううらぎりの罠・3
エガーテ王の舌には、勝利の美酒さえも水のように空虚であった。
ロンドシア城二階の大広間では、戦勝祝いと将兵への
本当はこんな贅沢をする余裕はないのだが、豊かだった旧時代からの風習はなかなか改めがたい。突然祝勝の宴を取り止めれば、軍の士気にも影響を及ぼしかねない。これも戦費のうちと、王は己に言い聞かせた。
エガーテ王はほかの大臣や貴族、将兵たちよりも二段高い玉座にゆったりと腰かけ、辛口の蒸留酒をわずかずつ傾けていた。その背後には、群青の地に三日月と剣を配したゼアテマ軍の紋章旗が掲揚され、ここにいる誰もがそれを見上げて杯を掲げている。しかし王は、とても一緒に浮かれ騒ぐ気分にはなれなかった。
――「姫を守りたければもっと兵をよこせ」などと要求するようでは、同盟国の友誼に悖ります。
ゼアテマはヨナディオとシトリューカの結婚を利用して、サン=セヴァチェリンにさらなる軍事協力を求めている。利己的で図々しく、また惨めな申し出であることは、息子に言われずとも承知の上であった。だとしても、いまのゼアテマには同盟国に頼ることしかできないのだ。
ヨナディオの一途さは、父王にとって青臭く煩わしくもあり、またどこか羨ましくもあった。
エガーテ王の妃、ヨナディオの母スカーリアは、次子を身ごもる前に胸の病に冒されて亡くなった。彼女はとある小国の姫だったが、その国は帝国に亡ぼされていまはもうない。あらかじめ定められた結婚で、初めて顔を合わせたのは婚礼の日であった。ヨナディオの母だけあってたいそう美しかったが、愛していたかどうかはもう記憶が定かでない。ただ妻が死んだとき、自分がひどく泣いたことだけは覚えている。
ヨナディオも、両親同様決められた相手と結婚するだけである。ただ違うのは、サン=セヴァチェリンとは国交が盛んで、シトリューカ王女と幼少期から一緒に過ごす機会が多かったことである。
ふたりは
ありがたく思う一方、エガーテ王には
エガーテ王は頭を緩く引かれるような酔いを覚えた。あまり良い気分ではない。外の風に当たりたくなって、近衛兵の一人も連れずにバルコニーへ出た。
ゼアテマは温暖な国だから冬でもなかなか雪は降らないが、さすがにつむじ風が吹くと身が縮む冷たさである。夜空を見上げると、少し前まで満ちていた月が欠け始めていた。
サン=セヴァチェリン王家と違って、ゼアテマ王家は月神をさほど敬っていない。むしろ、なぜ月は闇を連れてくるのだろうかと
「陛下、ご気分はいかがですか?」
背後から男の声がした。いくらか甘さを含んだ、耳に染み入る低い声だ。エガーテ王は振り返って身構えた。男の言葉にはギオーク風の訛りがあったからだ。
黒いローブをまとった、すらりと背の高い男だった。フードの下からのぞく黒い前髪は
「何者だ。顔を見せよ」
エガーテ王は威厳を保ったまま命じた。
「これは失礼」
男は袖から白い両手を出して、フードを脱いだ。その顔を見たとき、エガーテ王は思わず顔をしかめてしまった。
「このような醜い姿で、陛下の
男は赤い唇を曲げて微笑んだ。
いや、むしろ男は美しいのだ、ぞっとするほどに。目も鼻も口も、すべての
ヨナディオのような清廉な美貌とは違う。男の顔に染みついているのは、危うくて罪深い人生を送ってきた人間の妖艶さである。
ただ、惜しむらくは、男の顔の左半面が赤黒く
「この国の人間ではないな。どこから入ってきた」
王の問いかけに答えずに、男は白い手をかざした。
「ギオーク帝国軍の使者として、早馬を飛ばして参りました。国境の通行証も所持しておりますよ。もし私が帰ってこなければ、ボンサンジェリーにいる本隊がここへ探しに来るでしょう」
招かれざる客でありながら、男はエガーテ王を脅している。なんという大胆不敵さであろう。
この男がただの使者であるはずがない、と王は直感したが、名を問う勇気が持てなかった。
男は懐から麻紐で巻かれた書状を取り出し、エガーテ王に渡した。中身を読む王の顔がみるみる赤く染まっていく。
「いかがでございましょう? 陛下」
「……話にならん」
エガーテ王は書状を足元へ投げ捨てた。そこに書かれていたのは、王にとって、またゼアテマにとって、まるで受け入れられない内容だったからである。
「帝国のために何かをしてくださいと申しているのではありません。何もしないでください、ただそれだけのお願いです。我々がサン=セヴァチェリンへ軍を進める際に、黙ってゼアテマ領を通過させてくださるだけでよいのです。ご協力いただけるなら、わが帝国軍は未来永劫ゼアテマの独立を守る楯となりましょう」
「馬鹿な。私に同盟国を売れと言うのか」
「同盟国?」
男は長身を折り曲げて、書状を拾い上げた。
「サン=セヴァチェリンにとって、貴方がたと同盟していることに何の利点がありましょう? ゼアテマのために援軍を動かして、国費を
「無礼な!」
怒りに任せて振り上げたエガーテ王の手は、しかし男の頬を打つ前に遮られた。男は強い握力で王の手首を掴みつつ、なおも笑みを絶やさない。黄金色の瞳が有無を言わせぬ迫力でぎらりと光った。
「我らがギオーク帝国軍にお任せください。ときには裏切られる前に裏切ることも、国を守るためには必要な判断です」
陛下、と呼びかける声が大広間の中から聞こえた。
「
近衛兵が王を探してバルコニーへ出てくる前に、男は一礼して闇へ紛れてしまう。
再び手の中に握らされた書状を、エガーテ王は拒むことができなかった。
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