第三歌 風に散りゆく乙女の嘆き・2

 サン=セヴリャチ城からレアゼン峠へ向かう途上、ゼアテマの国境を越えた付近にベーテルウォールという森林地帯がある。

 レアゼン峠への近道ではあるが高低差が激しく、旅人や交易商の間では難所として古くから有名であった。鬱蒼うっそうと茂る森の中の長い坂を登り切って広い山上に出たかと思うと、北の三日月山脈から風が激しく吹き下ろしてくる。その次は傾斜のきつい下り坂だ。

 森には魔女が棲んでいるという噂も、旅人たちの間でまことしやかに囁かれていた。よほど火急の用件でもなければ、遠回りでも一度ロンドシアを経由して開けたゼアテマ街道に出たほうが安全である。

 シトリューカに求婚した後、ヨナディオは二晩サン=セヴリャチ城へ滞在して王や大臣たちと婚礼の日取りを話し合い、三日目の朝早くにロンドシア城へと戻っていった。シトリューカとは夜ごとに睦言むつごととくちづけとを交わしたが、もちろん最低限の「礼節」は保ったままだ。

 次にヨナディオと会う日は、ふたりの結婚式の日になるはずであった。そしてその日から、恐らくは満ち欠けの激しいものになるだろう人生を、手を取り合ってともに歩むはずであった。

 シトリューカにも祖国を離れて暮らす不安はあった。行き慣れた隣国とはいえ、話す言葉も文化も違うし、ギオーク帝国の影も忍び寄っている。それでも望み続けた結婚だ。サン=セヴァチェリンの王女は、その日を深い喜びとかすかな恐れに胸を高鳴らせて待っていた。

 だがヨナディオが発ったその翌日の夕刻に、サン=セヴリャチ城の物見塔から、南方に狼煙が上がっているとの報せが入った。

 レアゼンがまたも攻められている――今度の敵は、帝国軍かもしれない。

 シトリューカは即座に軍を率い、援軍に馳せ参じることに決めた。レアゼン砦の守将ミゼルは有能だし、サン=セヴァチェリンの仲間たちも常駐している。帝国の大軍には生かせない地の利もある。急げば救うことができるはずだ。

 だからシトリューカの進路は、必然的にゼアテマ街道ではなくベーテルウォール方面になった。

 同じ狼煙を、帰路についていたヨナディオも見ていた。王子は従者のひとりにロンドシア城への伝令を任せ、自らは急遽行路を変更してベーテルウォールからレアゼンへ向かうことにした。

 ベーテルウォールの森には、先にシトリューカが辿り着いた。サン=セヴリャチからは、平地をほぼ真っすぐに進めばよかった。王女の結婚を前にして将兵たちの士気も高く、行軍はすこぶる順調であった。しかし国境を越え、昼でも薄暗いベーテルウォールの森に足を踏み入れた瞬間に、シトリューカは胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。

 無数の老木が人間たちを見咎めてひそひそと陰口を言い合っているような、じっとりと湿った空気。ただでさえ見通しが悪いうえに朝には霧も出る。こういう土地には兵を伏せやすいものだ。――いや、同盟国の土地なのだから、そんな心配をする必要はないはずなのに。

 無闇に不安に駆られるのは、結婚を控えて気が昂ぶっているせいだと思いたかった。――だが、それは杞憂ではなかったのである。

 間もなく山上にさしかかろうかという暗い夜、隊列の前方から波のように、じわじわと動揺が伝わってくる。指揮官として中央を行くシトリューカには、前後の様子がすぐには分からない。正式な伝令より先に、めいめいに騒ぐ将兵たちの声で、事態を把握することになった。

「伏兵だ!」「黒旗だ!」「帝国軍がいるぞ!」

「まさか」

 にわかには信じられず、思わずシトリューカは声を上げた。レアゼンが落ちたのか。いや、だとしても早すぎる。帝国軍はボンサンジェリーにいたはずなのに――。しかし間もなく山上から降り注ぐ矢の雨とともにギオークの軍旗を目の当たりにすると、シトリューカは将として対処しなければならなくなった。

 帝国軍がなぜゼアテマ領にいるのかは分からないが、狙いは明らかにシトリューカらサン=セヴァチェリンだ。一旦軍をまとめて退き、国境の守備隊と合流するしかない。

「全軍転進! 火薬番に赤い花火を上げさせて!」

 危機を知らせる赤い花火はどうにか上がった。しかしシトリューカの指示はうまく行きわたらない。シトリューカも、シトリューカの兵も、負け慣れていない。初めての危機に、軍団は総崩れになってしまった。

 シトリューカが馬首を返そうと手綱を引いたとき、急に愛馬が棹立さおだちになった。咄嗟に鞍上あんじょうから飛び降りたが、愛馬はそのまま横ざまに倒れた。その首筋に深々と矢が突き立っている。もう助からない。幼い頃からその背に乗り、ともに駆け続けた大切な戦友を、シトリューカは見捨てなければならなかった。

 漆黒の軍隊はもう目の前に迫っていた。兵たちが次々と倒れていく。

 ――こんなところで、死ぬのは嫌!

 シトリューカは夢中で剣を振るった。「戦場の女神」と謳われた清らかさは、敵兵の返り血によってあっという間に汚れた。金髪が血で絡まり、汗ばむ頬にへばりつく。戦場でもなるべく人を死なせたくないという信条も、いま自分が生き延びるためには邪魔でしかなかった。あれは綺麗事だったのだろうか。勝者の傲慢だったのだろうか。

 ふと気づくと、目の前に背の高い男が立っている。その身を黒い甲冑に包み、右手一本で剣を地面に垂らすように手首を下げて構えていた。奇妙な構え方だ。顔は兜の陰になってよく見えないが、明らかに有象無象うぞうむぞうの将とは違う覇気をみなぎらせている。

 シトリューカは直感した。この男が、ギオークの大将軍に違いない。

「シトリューカ・サン=セヴァチェリンだな」

 ギオーク語だった。その声には嘲笑の響きがあった。

 詳細はともかく、目の前にいるこの男が何か卑劣な手を使ったに違いない。呼び捨てにされたこともシトリューカの怒りを煽った。サン=セヴァチェリンの軍人なら、たとえ敵であっても敬意を払えと教えられるのに、ギオーク軍ではそうではないのか。

 答えを待たぬまま、男はシトリューカへ向けて剣を振り下ろした。長身から繰り出される剣撃はまるで遠くから飛んでくるかのようで、しかも重い。けれども自分より背丈の大きい相手に対する戦法を、女であるシトリューカはよくよく学んできた。間合いを計りながら、わずかな隙を逃さず懐へ飛び込むか、籠手を狙って剣を奪うか。

 このときシトリューカは後者を選んだ。ほんの刹那、開いた手首の内側を狙ってすかさず剣で打つ。たとえ籠手で守られていても、それなりの衝撃を与えられる。将軍は剣を取り落とした。勝てる!

 だが、次の一振りは空を切った。

 強い力で頭を掴まれ、地面に叩きつけられる。銀の兜が凹むほどの衝撃に、こめかみから全身に痺れが走った。目が眩んだが、かろうじて意識は保っている。起き上がろうともがくシトリューカの腹に、さらに重い痛み。蹴られたのだと分かったのは、はるか上から将軍が冷罵れいばを浴びせてきた後だった。

「『戦場の女神』とはこの程度か。敵は剣以外でも攻撃してくると、先生には習わなかったのか?」

 息が詰まった。こみ上げてきた胃酸が口から溢れ出す。なんて凶暴な戦い方だろうと感じたのを最後に、頭が働かなくなっていく。

「所詮は戦場にお姫様など、不要ということだ」

 せせら笑う声だけは、最後まで聞こえた。

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